クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 5 - 8
(5)
「賀茂っ。・・・大丈夫かよ?賀茂!」
聞き慣れた声に明はゆっくりと目を開いた。
陽の色の前髪を持つ友人が心配そうに覗き込んでいる。
はっとして己が身を見たが着衣のどこにも乱れはなく、指も汚れてはいなかった。
「・・・ゆめ・・・?だったのか・・・?」
「あー?居眠りして怖い夢でも見てたのか?すげェ悲鳴が聞こえたから
慌てて来たってのに。賀茂でも、そんなことあるんだなー」
近衛光は名前そのままの翳りない明るさでにぱっと笑った。
闇の中に居た身にはそれが眩しく感じられて、明は思わず目を細める。
「ホラ、いつまで寝てんだよ。まだ勤務時間中だろ?
どこも悪くないなら、起きた起きた!」
普段は自分のほうこそ昼間から眠いだの退屈だのと騒いでいるくせに、
強引に明を起き上がらせようとする。
子供のように元気な声を微笑ましく思いながら、先刻――夢の中で?――
はしたない行為に及んでいた右手を取られそうになり、思わず払い除けてしまった。
パシ、とやけに高く音が響く。
光が呆気に取られた顔をする。
「あ・・・」
謝らなければ。
そう思うのに喉が詰まったように言葉が出ない。
明はこういう場面に慣れていなかった。物言わぬ式神を家族として十数年も、
謝罪の言葉も感謝の言葉も口にする機会がほとんどないまま過ごしてきた。
だが今目の前にいる光は生きた人間で、自分の友人で、
自分は今彼の親切に対して無礼を働いた。
ここは謝っておかねばなるまい。
そうだ、こんな時のための言葉は――
「近衛、すまなかっ――」
「ちぇっ、イッテーの!人がせっかく親切にしてやってんのに!」
明の謝罪の声は、頭の後ろに手を組んだ光の大声で掻き消されてしまった。
(6)
「・・・・・・」
「へっへー、オマエどうせ、怖い夢見て悲鳴上げちゃったのが恥ずかしいとかだろ?
でもオレ、もう聞いちゃったもんね。いつもツーンと澄ましてる、
都一の天才陰陽師として名高い賀茂サマが――」
「・・・別にそんなつもりじゃない。ただ、床から起き上がることくらい
キミの手を煩わせなくとも出来るから、こうしただけさ・・・」
自力で身を起こしながら、地の底から響くような声で明は言った。
光が軽口を止めた。
「あ・・・ごめ、・・・オマエもしかして何か怒ってる?・・・うん、確かにオレちょっと
言い過ぎた・・・かも・・・?えーと・・・」
顔を引きつらせてチラチラとこちらの様子を窺いながらエヘヘ、と笑って誤魔化す
その表情もまた、悪戯を見つかった子供のように素直過ぎて憎めない。
明は溜め息を吐いた。
その溜め息をまた悪い方向に取ったらしく、誤魔化し笑いも止めて
真顔になった光がしゅんと肩を落とす。
そうじゃない、キミは何も悪くはないのだと言葉を掛けてやりたかったが、
謝罪の言葉一つ口にするにもエネルギーを使う明にとって、そんなことは更に
難易度が高すぎた。
面倒臭くなって明は話題を変えた。
「それで・・・キミは今日も、佐為殿のお供でここに?」
「え?あー、ウン!でも佐為は今日帝の指導碁で遅くなるから、
オレ先に帰れって言われたんだ」
先刻まで肩を落としていたのに、明が話題を変えた途端またにぱっと笑って
何事もなかったかのように話に乗ってくる。
自分が誤解させておいて云うのもなんだが、一秒前のことを覚えていないのだろうか?
――わけがわからない。
だがそれを云うなら自分の話題の切り替えも相当唐突だったから
おあいこなのかもしれないと明は思った。
(7)
「そう・・・じゃ、気をつけて帰るといい」
「あ、何だよそれ、そっけねェな。オマエだってそろそろ帰る時間だろ。
オレ待ってるから、一緒に帰ろうぜ!」
「・・・一緒に?なんでボクが」
「そろそろ涼しくなってきたし、オマエちょっとは運動したほうがいいぜ?
いっつも牛車ばっかりじゃ、イザって時にすぐへばっちゃうぞ。
・・・ホラ、この間だってさぁ、」
珍しく目を逸らし口の中でごにょごにょと何か云いながら、光が少し赤くなる。
いつのことを云われているのか明にもすぐ察しがついた。
頬がカァッと熱くなる。
「あ、あぁ。・・・うん、まぁ、・・・」
「・・・だろ?」
「・・・そうかな」
「そーだよ。だからこれからはどんどん食わせて、運動させてオマエに体力
つけさせるから。夏の間にオマエちょっと痩せたし。だから、なっ。
オレ外で待ってるから、今日は歩いて一緒に帰ろうぜ。決まり!」
真っ赤な顔をして返事も聞かずに光が出て行った後を、明は温かな思いで眺めた。
昼間だというのに薄暗く閉ざされた闇のような空間に、
光が灯を灯して行ってくれたような気がする。
大体にして、先刻の夢――?の中で明があるまじき行いに及んだ原因も
あの能天気な、太陽のように明るい友人との関係にあるのだった。
(8)
桜の頃に出会った二人は、橘が白い花弁を開く季節に
どういうわけか友人の一線を越えて結ばれた。
初めて覚えた性交の味をいたく気に入ったらしい光は、それからしばらく
事あるごとにニコニコと明に擦り寄ってきた。
明もまたそれを拒むことなく要求されるままに身を任せていたが、
一月ほど前に睦みあっている最中、残暑の疲れもあって貧血を起こしてしまった。
それを光は、自分が明に無理強いした結果と取ったらしい。
以来、滅多に明に触れて来ないようになってしまった。
触れても、人目につかない所で口を吸ったり、猫でも膝に乗せて撫でるように
明を抱擁して髪だの頬だのを撫でるだけだったりという具合である。
「オマエ、あんま思ったこととか口に出せない奴だもんな。
オレばっかりいい思いしてオマエにきつい思いさせちまって・・・ごめんな。
これからは気をつけるから」
そう光は云っていたが、明にしてみればそれこそ青天の霹靂だった。
確かに多忙な時や疲労が溜まっている時などに光に抱かれることは、
肉体的に負担を感じることもあった。
だが一度たりとそれを嫌だと感じたことはなかったのだ。
寧ろ、この友人が自分と共に一定の時間を過ごすことを望んでくれるのが嬉しかった。
生身の相手と会話するのは苦手だけれども
肉と肉との交わりならばそれほど気を遣わずに済むのも有難かった。
生きた人の肌の温もりに触れるのも新鮮だった。
そして何より、求めてくる光よりも求められる明のほうが、
実は「その味」に夢中になってしまっていた。
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