黎明 5 - 8


(5)
また、誰か来た。
それが誰であるかもわからずに、彼はいつものようにその人の首に腕を絡ませ、唇に唇を重ね、
その人の体温を確かめるように身体を摺り寄せる。
だが、その人の反応はいつもとは違った。
いきなり身体を突き飛ばされてもまだ彼はぼうっとしたまま、焦点の定まらない目で、その人物を
見あげた。見下ろす視線が、黒く光る一対の眼光が、甘い闇を切り裂くように彼を射た。
「僕がわからないのか?」
鋭い声が彼を責める。反射的にその光から逃れようとしたが、両手で肩を掴まれていて、逃げる
事はできなかった。いや、彼の身体に、逃げ出すだけの力は、残されていなかった。
「だれ…だ…よ…」
口を利くのは久しぶりで、思うように舌が回らず、途切れ途切れにしか話せない。
「近衛!」
近衛、だって?そんな名はもう捨てた。彼を守りきれなかった自分に、今更守れるものなどない。
「誰…だ、よ……知らねぇよ、おまえなんか…!」
折角最近では忘れていられたのに、なんで今更思い出させようとなんてするんだ。
出てけ。おまえなんか知らない。おまえなんか呼んでない。
「なぜ、こんな所で、こんな事をしているんだ…!」
「な…んだよ、おまえになんか、関係ぇねぇよ…、どうでも…いいじゃねぇか、そんな事…」
そう言いながら目の前の身体に抱きつき、袂から手を差し入れ、裸の肌の温もりを求めた。けれ
どその身体は彼の望む温もりを与えようとはせず、彼の身体を引き剥がした。
「やめないか!」
「なんだ…よ、何しに…来たんだ…、俺を…暖っためてくれるんじゃなかったら、こっから…
出てけ、よ…!」


(6)
「どうぞ手荒になさいませぬよう。」
彼をこの部屋へと案内した女房が、香炉を手に低く声をかける。そこから広がる甘い香りが一段
と濃密に室内を満たすと、少年の目はまたとろりと溶けて甘い香の闇に沈んでいった。彼はその
女房を睨みつけたが、彼女はその視線をやんわりと受け流し、「どうぞごゆるりと」と、不気味な笑
みを残して消えていった。

何もかもを甘く包み込むような濃い香りの闇をじんわりと照らす小さな明りの元で、香のもたらす
まぼろしに心を奪われた少年を、信じられない、という思いで見つめる。
ふっくらと可愛らしかった頬はこけ、顎は細くとがり、健やかな血の色を失って窶れ果てたその顔
は、どこか淫靡であった。大きな瞳は憂いに満ち、甘い香の効果に焦点の合わないその眼差しは
妖艶ですらあった。ほっそりと白い首が少女めいた面差しを支え、すっかり肉の落ちた肩は薄く、
腕は細く、これがかつて剣技の冴えを称えられた、幼くとも勇敢な少年検非違使と同じ人間である
とは、俄かには信じがたいほどであった。ましてやその彼が、魔の香に囚われ、相手構わず肌の
暖かさを求める程に堕ちていようとは。

少年のその様子に、耳に入った噂がほぼ真実に近かった事を思い知らされて、暗澹たる思いで
彼は横たわる少年を見つめた。ここまで堕ちてゆくに足る程の彼の絶望を、苦しみを思い、また、
彼をこれ程の闇に追い落とした人物の儚さを嘆いた。そして、彼がこれ程までに苦しんでいた時に
傍にいてやる事もできなかった自分の無力さを、彼は呪った。
そうして束の間、痛ましい眼差しで少年を眺めた後に、彼は意を決したように眦をきりりと上げて立
ち上がった。


(7)
引き戸の外に控えていた先程の女房が、同じように微笑んだまま、彼を迎えた。
睨みつける視線も気にかけず、つと立ち上がると彼に目配せし、ついて来い、というように身を翻
した。廊下を渡り、女の向かった部屋は、どこか異国の香りの漂う豪華な調度で設えられた部屋
だった。部屋の中央に女は腰をおろし、勧められるままに彼も女の向かいに腰をおろす。
悠然と座るそのさまと、傍らに使える女童の態度からこの女がただの女房でなくこの屋敷の主で
ある事に気付き、彼は眼を見張った。高貴な身分の女性がこのように人前に姿をあらわすなどと
は考えがたい事であった。けれど女は彼の驚き、非難するような眼差しを平然と受ける。
女の醸し出す空気は、先程までいた室内を満たしていたものと同じように、甘く、からみつくように
ねっとりと甘く、その空気は彼にとってはひどく不快であった。
なぜ、かの少年が、この屋敷にあのような状態でいるのかわからない。けれど、それが、この得体
の知れない女の意の結果であろうという事だけが、彼にはわかった。
それならば、と、彼は意を決して女を見据えた。本来であれば目通りも許されぬであろう高貴な存
在に向かって、臆する事もなく。


(8)
「彼を返していただく。」
低く鋭い声で彼は言った。
彼のきつい眼差しに、けれど女は髪の毛一筋ほども怯む事は無くただそれを受け止め、その顔
に笑みを浮かべたまま、変わらぬ甘く柔らかな声で、言葉を返した。
「返す、とは、これはまた異な事を。」
ぎらりと彼女を睨みつけると、彼女は、ほほ、と小さく笑って言った。
「雨に震えている仔犬を拾って、望むものを与えてやったというのに、そのような目で睨まれる謂
れはありませぬ。」
彼の視線を軽く流した女に向かって、低く、押し殺したような声で彼は尋ねた。
「彼が、何を望んだというのです?」
「熱い人肌と甘い夢。わたくしはただ、あの者の望むものを与えただけ。」
夢見るようにうっとりと、彼女は言った。
それから、その夢見る眼差しのまま、続けた。
「あの者を返せ、と言うそなたは、あの者をどこへ返すと、そしてあの者に何を与えられるというの
です?」
「彼自身を、彼自身のいるべき所へ。」

「ほ、」
彼女は大きく目を見開き、可笑しそうに笑い出した。
「ほほ、ほほほほほほ、それはそれは…ほほ、まあ、可笑しい。」
彼女は立ち上がって彼ににじり寄り、覗き込むようにその目を見ながら、尋ねた。
間近に目と目が合って、ぞくり、と背筋が震えた。
深い、底の知れないような黒目がちの瞳のその色に、我知らず、自分の背を嫌な汗が伝い落ちる
のを感じた。
この目に、この闇に、飲み込まれてはいけない。
「それでは、そなたの望むものは何です?」
歌うように彼女は問い掛ける。
「そなたはそなた自身の望みを、本当にわかっているのですか?」



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