落日 50 - 53


(50)
伝わるごとに少しずつ形を変えていきながら人伝に広まりゆく噂は、真実から最も遠い所がまるで真実
であるかのように形成されることもあれば、何の根拠もなく誰の弁ともなく、けれども確かに真実に近い
形が、混沌の中から浮かび上がってくることもある。だがそれを聞く者にとってはそれがどれ程真実に
近いのか、遠いのか、確かめる術はない。知り得る者がいたとすれば当の噂の的の本人以外にはな
かったろう。だがその本人が既に禁忌である時、また、物言わぬ、己を失った者である時、真実などと
言うものはもはやどこにも存在しなくなる。

今ではその名を禁ぜられたかの囲碁指南役の最後の因縁の試合の、その真実は果たしてどこにあっ
たのか。座間方の陰謀であったとか、不正を働いたのは実は対局相手の方であったとか、いや、そも
そも彼が不正など働くはずがない、と、亡くなった人を知る者は言葉少なにそうこぼした。だがそれは
負け犬の愚痴以上のものに捉えられる事はなく、内心それに頷く者はいても、「あるべきでない」噂を
はっきりと肯定する者も、また否定する者も、いよう筈もいなかった。
だから、口にすることを憚られる存在は速やかにその存在を抹消されていく。誰もが、そして誰よりも
最高権力者たる今上帝が、その事件を葬り去ってしまいたいと、なかった事にしてしまいたいと思って
いたのだから。
そして宮中にはまた禁忌が加わる。
「藤原佐為」という名はそのまま葬り去られ、口の端に乗せることを禁ぜられる。「先の囲碁指南役」と
いう呼び方でさえ、辺りを憚りながら低い囁き声でのみ音にされる。
そうして二重の禁忌に隠された噂だけがひたひたと、見えない水のように広がっていった。


(51)
私は噂話というものは好まぬ。ましてやそれが己を遠ざけるように囁かれ、近づいたときにはぴたり
と話し止まれてしまうようなものは。初めは気にもかけなかったが、度重なれば気に障る。またもや
私の姿を見て口を噤んだ男を、耐えかねて捕まえ、問うた。「今話していた話を続けよ。」と。
「は…しかし……」
けれど彼は容易に口を割ろうとはしなかった。どうやらその話の内容によって私の不興を買う事を
恐れているようであった。馬鹿馬鹿しい。既におまえは不興を買っているというのに。
「私の前では話せぬ話があると?」
「いえ…そのような、」
「では、申せ。」
正面から睨み据えればもはや拒み続ける事などできる者はいない。
「……主上の思し召しとあれば…申し上げます。」


(52)
「五条の…?」
その者の口からその名が漏れた時、私は鬼のような形相をしていたのかも知れぬ。
常なれば口にする事を許されぬ禁忌に、事もあろうにそれを禁じた当の本人に向かって口にして
しまった事に、彼の顔がさっと蒼ざめた。けれど私は先を促し、そこで話を断つ事を許さなかった。
怯えながらも彼は続ける。
彼の話に半ば耳を傾けながら、その女を思い出していた。
美しい女だった。けれど、それ以上に恐ろしい女だった。甘くむせるような香に溺れて、ただ一度、
契りを交わした。誑かされた、という方が正しいかも知れぬ。あの香の正体が何であるかは知ら
ぬ。けれどあの香に惑わされなければ、父の女と関係を持つなど、いかな自分と言えど、ありえ
ない事だったろう。人に知られれば二人とも身の破滅であろうに、何を思って憎いはずの女の息
子に手を伸ばしたのか。
真意などわかろう筈もない。
いや、それとも、あの頃既にあの女は壊れかけていたのかも知れぬ。なぜなら私に貫かれ私に
絡みつきながら彼女が呼んだのは、私ではなく彼女の息子の名だったのだから。最愛の息子を
失って、もはや恐れるものなど何もなかったのだろうか。それとも彼の死の遠因である私を肉欲
に引きずり込むことによって、復讐を遂げようとでも思っていたのだろうか。
甘い香に幻惑されながら、じっとりと熱く甘く、うねるように己を包み込んだ肉がその時私に与え
たものは、快楽よりも恐怖に近く、それ以来、私にとって女というものは恐ろしく、またおぞましい
存在でしかない。

そのような苦い思い出に耽っていた時に、また、もう一つの名を聞いた。
五条の御方。先の囲碁指南役。そのような呼び方でさえ、それは口に乗せられる事を禁じられた
名だった。言の葉に乗せることもなく、けれど確かに私はそれを禁じた。迂闊にその名を口にした
ものの行く末から、人々はそれが禁忌である事を思い知ったのであろう。その二つは私にとって
は全く違った意味で、二度と、触れたくはない名だった。
なぜそれらの二つの名がここで結び付くのか。
彼らが口を閉ざしたがるのもわかるような気がした。


(53)
けれどそれでも私は先を促す。
「彼の警護役……?」
確たる証しは無いのですが、と彼は言う。当たり前だ。伝え聞いた噂話にそのようなものがあろう筈
がない。
だがそれが「彼」自身の事でなく、「彼」の警護役の事なのだと聞いて、私は途端に興味を失った。
そのようなつまらぬ噂話を、画策して自分から遠ざけようなどとしたのか。
彼に縁りの者がどこで何をしていようと、もはや自分には何の関わりもない。
ただ。
ふとその少年を思い出す。都人には珍しい明るい前髪の、明るい笑顔の少年であったように思う。
あのように目立つ容姿の者であれば、成る程、二つの禁忌に触れる事でも、人々の口の端にのぼり
口さがなく噂されてしまうものなのかも知れぬ。内裏でも何度か姿を見かけた少年の、その名は、何
と言ったろう。確かその名を聞いた時にはひどく合点がいったものだ。だが今、その名が何であった
かを思いだせぬ。
いや、思い出す必要もないだろう。
あの美しい囲碁指南役はもういない。
なれば、彼のかつての警護役が何だと言うのだ。
落ちぶれた家に落ちぶれた者が囲われているというのなら、それもまた似合いであろう。あの女が
見捨てられた子犬を拾っては慰み者にする事など、今に始まった事ではない。それが誰であれ、
自分が何か言い立てる必要などあるまい。
全てはなすがままに、流れのままに流れてゆくしかないのだ。

「よい。捨てておけ。」
そう言い捨てて、先に女御に取り立てた女の住まう宮へと足を運んだ。



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