無題 第2部 51 - 55
(51)
「まだ時間ちょっとあるし、オレ、もっかい寝る。」
走って家まで帰ってきたヒカルは、そう言って階段を駆け上がり、ベッドの上に音を立てて
倒れ込んだ。
まだ心臓がドキドキいってる。走ってきたせいだけじゃ、ない。
「オレ…おかしいのかなァ…?」
ベッドに伏して、顔だけ横を向けてそう呟いた。
―さっきまで、アイツがそこで寝てたんだよな。
きちんと畳まれた布団を見て、ヒカルはアキラの寝顔を思い出した。
安らかな、キレイな寝顔。ピンク色の唇。風になびいて揺れる髪。
ドクン、と心臓が大きく脈打った。
そのまま、ヒカルの片手が股間に伸びた。
触れてみた耳は、熱かった。アイツの身体も、あんなに熱いんだろうか。
思いがけなく手に掛かった髪はサラサラと心地良い感触で、いい匂いがした。
あの黒髪を思いっきり乱してみたい。
あの柔らかそうな唇に触れてみたい。
あの熱い身体を抱き締めてみたい。
ヒカルの手に熱が篭る。
「あっ…とう…やぁ…っ」
絶頂で彼の名を呼び、ヒカルは自分の手の中に放った。
ぐったりとベッドに横たわるヒカルに、階下から母の声が届いた。
「ヒカル!?ほんとに寝ちゃったの?あんただって学校行くんじゃないの!?」
―何やってんだ、オレ…朝から2発も…しかも、男相手に…
行けるもんか、学校なんか。こんな状態で。
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頬がまだ赤いのが自分でもわかる。触れられた耳が熱い。
しかも、赤面しながらも、自然と顔が笑ってしまうのが防げない。
手で口元を隠しても隠し切れはしないだろう。
アキラの耳の奥でヒカルの声がなんどもなんども繰り返し蘇る。
―キレイだな…カワイイぜ…
「…バカヤロウ…!」
電車の中で、アキラは小さく悪態をついた。
「進藤のヤツ…人をからかって…」
触れられた耳が熱い。
彼は、普通にちょっと触わっただけだったのに、そこから体中に電流が走ったみたいだった。
そして今でもじんじんと痺れるように感じている。
思い出しただけでも鼓動が早くなり、心臓の音が響いて、車内中の人に聞こえているんじゃ
ないかと思うほどだ。
―これは一体、何?
アキラには自分の身体の反応が理解できずにいた。
(53)
電車が地下に入り、何気なく見た目の前のドアに映っている人物がなんとなく自分を見ている
ような気がして、アキラは振り返った。
その男は慌てて視線をそらしたようだったが、少しするとまた、アキラの方を見る。
―なんだ…?失礼な。
不愉快に感じて、軽く睨んでやった。
が、その男はアキラの視線をとらえて、にやっと笑った。
アキラはカッとしてその男を睨み付けた。だが、男はアキラの視線などものともせず、
にやにやと笑って、面白そうにアキラを見返した。
そして今度はもっと無遠慮に、じろじろとアキラの全身を眺め始めた。
そうしてもう一度、睨み付けるアキラの顔をとらえて、下卑た笑いを浮かべた。
屈したのはアキラの方だった。
悔しさに唇を噛みながらアキラは男から目を逸らし、彼に背を向けた。
が、アキラはすぐにそれを後悔した。
背を向けていても、男の視線が舐め回すようにアキラの全身を視姦しているのを、アキラ
は感じた。屈辱で全身が震えるようだった。手すりを握り締める手が白くなっていた。
車内のアナウンスに乗客が入口に移動する。それに紛れてその男がアキラの背後に立った。
アキラの全身が硬直した。
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男の酒臭い息の匂いがアキラに届いてアキラはぞっとした。
ここから逃げ出してしまいたい。だが足を動かす事ができなかった。
駅に着いて、人が降りるのを避けようと、アキラはほんの少しだけ移動した。
そのスキをついて、男の手がアキラの尻を軽く撫でてからアキラの横を通り過ぎた。
全身が総毛だった。
アキラのその反応を楽しむように、男は降り際に振り返って、アキラを見て嗤った。
恐怖と怒りと屈辱に身体を震わせるアキラをよそに、地下鉄の扉が閉まった。
「畜生…!」
今までもそういった視線にあったことがないではない。
しかし、超然としたアキラの視線にあって、大抵の場合は相手の方が怯んで、目をそらした。
だが、さっきは自分の方が彼の視線に怯えた。その事が第一の屈辱だった。
なぜ、と問うまでも無い。
自分が変わってしまったからだ。変えられてしまったからだ。
力で征服された事を、その恐怖と屈辱を、乗り越えたと思っていた。
だがそれはとんでもない思い上がりだったのだと気付かされた。
忘れてはいない。忘れられるはずが無い。
瞬間、あの時の記憶がフラッシュバックする。
背後からかかる熱く荒い息。全身を弄り玩ぶ指や舌の感触。身体を引き裂く痛み。
そして自らの抵抗の意志を無視して、絶頂へ向けて駆け登っていった身体の感覚が蘇る。
何より許し難い肉体のその裏切り。
目の前が暗くなる。貧血だ、とアキラは思った。
倒れそうになるのを、必死に手すりに掴まって耐えた。
目的の駅は、まだ遠い。地下を走る轟音が耳の遠くで聞こえていた。
(55)
「ふれあい囲碁まつり」のポスターを見たのは偶然だった。
最近、街中でも「碁」の字につい反応してしまう。
だが、その時更にヒカルの目を引き寄せたのはその中の「塔矢アキラ」の文字だった。
まだ開始までは随分と時間がある。
ヒカルはそっと部屋に入り、中を見まわした。
広い室内に、ヒカルの目はすぐに目的の人物の姿を探し当てる事が出来た。
彼は椅子に座って、参加者が連れて来た子供と話していた。
何か話しかける子供に優しい笑顔で応えている。
―あんな、優しい顔もできるんだ。
ヒカルの一番よく知っている彼は、鋭い真剣な眼差しで対局相手を、碁盤を見詰める顔だった。
だが今はそんな鋭さなど嘘のような、穏やかで優しい笑みを浮かべている。
今まで見た事の無かった彼の表情に、ヒカルはうっとりと見惚れていた。
―子供、好きなのかな。いいなぁ、可愛いなぁ…
そんなヒカルの視線に気付いたのか、彼は顔をあげ、ヒカルの方を見た。
「進藤?」
アキラの顔がぱっと明るく輝いて、ヒカルに向かって笑いかけた。
「どうしたの?今日はキミが来るなんて聞いてなかった。」
子供に微笑み掛けてから、立ち上がってヒカルの方に近づいてくる。
それなのに、ヒカルはそんな彼を正視する事が出来ずにうろたえた。
顔が熱い。動悸がする。
「進藤…?」
そんなヒカルを見て不安そうになったアキラの表情には気付かないまま、ヒカルは彼に
背を向けてその場を逃げ出した。
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