裏階段 アキラ編 51 - 55
(51)
最初の頃は毎夜のように夢枕に伯父が立ち、オレを見下ろしていた。
「あんたに付きまとわれる覚えはない…」
何度もそう叫んだが、伯父の濁った色の眼球の冷たい視線は変化がない。
自分の才能を吸い上げ奪い取って行った若々しい生命を恨むかのように。
「オレが望んだわけじゃない…!」
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その伯父の手がひょろりと伸びて来てオレの体にまとわリ付き、何度もうなされて目を覚ました。
伯父の体が覆い被さって息が出来なくなる事もあった。
伯父以外の、オレを抱いた名前も知らない男達も現われる事があった。
先生の寝室は居間を挟んだ反対側にあって、気付かれる事はないと思っていたが、
ある夜、同じようにうなされ、目を覚ました時額に手が当てられていた。
「大丈夫かい、…ひどい汗だ。」
オレは迷わず目の前のその声の持ち主に向かって両手を伸ばし抱き着いていた。
ふいに家の外に車が停まる音がして、人が降りる気配にハッとした。
アキラはなお強くしがみついて離れようとしなかった。
「約束するよ、ずっとアキラくんの傍にいる…。」
「本当に…?」
頷いてアキラの体を布団の中に横たえ、部屋を出た。
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玄関に行き、鍵を開けて戸を開けると先生と夫人が荷物を下に置いて
互いの胸と背に清めの塩をかけ合っているところだった。
「お帰りなさい、お二人ともお疲れでしょう。」
「ただいま、緒方さんのお陰で助かったわ。あら、アキラも寝ないで待っていてくれたの?」
夫人の言葉に驚いて振り返ると、部屋で寝ていると思ったアキラがすぐ後ろに立っていた。
その時アキラはオレの腕に抱き着くと、先生に、
ある意味勝ち誇ったような、父親の所有物を奪い取ったかのような視線を向けていた。
先生と夫人にそのまま泊まるよう勧められたが断り、自宅マンションに戻った。
先生が若い頃過ごしたあの部屋のせいか、アキラを抱きしめた時
子供特有の甘い匂いの中に、微かに、確かにアキラは
父親と同じ匂いを持っていると感じた。その匂いに
伯父の記憶よりも何よりも奥底に封印し蘇らせてはいけないと決めた記憶を
その深淵から思わず引き上げさせられかかったのだ。
あの場所から、彼等から離れる事しかその時のオレにはできなかった。
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それから数日して、久しぶりに先生から「碁を打たないか」と誘いを受けた。
断る事のできる理由も見つからず塔矢邸に向かった。
何か話があるといった様子は先生の声色から受け取れた。
アキラはまだ学校から戻っていなかった。ただもう彼は放課後を碁会所で過ごす事が
日常となっていたので、自分がここに来ている間に顔を合わす事はないと思われた。
打ち合って間もなく先生が静かに話を切り出した。
「…あの子は、アキラは焦れている…。」
「…え?」
「碁の道を進む上での道標を得られず、意識が宙に浮いてしまっているのだ。」
「…それは、わかります…。」
同年代に競い合う者がいない。もう少し待てば、そういう相手が現れるかもしれないし、
現れないかもしれない。オレや芦原のような一時的な目標とする対象とは違う存在である。
「…そういう相手がいないということは自分の位置を見定められず、苦しむものだ。」
「半目を凌ぎあうような対局を何度も打ち合えるような切磋琢磨の相手とは、
我々でもそう出会えるものではないですからね。まして子供の世界では、ムラや集中力の
バラつきも多いですし。」
年令をおう毎に興味の対象も広がる。ましてやこれだけ情報が氾濫している中で、
他を切り落としただ一筋の道を往く事は口で言う程易しくはない。
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アキラが心から父親を尊敬し同じ道を進もうとしている気持ちに迷いは今のところは
ないだろうが、確かにライバル不在でどこまで日常的に向上心を保てるか。
大人でも難しい事だ。
アキラはまだプロではない。だが明らかにアマチュアの範疇でもない。
そしてその事を彼自身がよく知っている。
「思いきって、アキラくんにプロ試験に挑戦する事を勧めたらどうです?」
「…うむ…。」
先生が迷うのも分かる。“他にどうしようもないからプロ試験を受ける”という安易な選択を
アキラにさせたくないのだろう。
もうひとつにはあまりにも早い年令でその中に埋没してしまうと、今はいいが、
長い人生において後々何らかの機会に弊害が出て来るかもしれない。
それは父親としての正直な心情と言える。
「時間が欲しいのはどうやら私の方のようだ。…緒方君、もう少しあの子の我が儘に
つき合ってやって欲しい。あの子が今の状況の中で自分の居場所を見つけるまで。」
「アキラくんは賢い子です。ライバルが居ないなりに自分で答えを出せるでしょう。
そんなに時間はかからないと思います。」
しばらく間があり、対局の再開がなされた。
一人の父親の顔からプロ棋士の顔へと変化する。
瞬時のうちに、毎日のようにここで先生と打ち合った日々に引き戻る。
地獄の底から救い上げられたこの場所は昔も今もやはりオレにとっては
悲しいほどに眩し過ぎる。そしてそれはおそらく一生変わらない。
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