裏階段 ヒカル編 51 - 55


(51)
プロと違いやはり院生としての限界、ここまで、という読みからの余裕の表情が
村上に出た。ただ格下相手に露骨に感情を見せる事に抵抗があるのだろう。
もちろん、進藤のその一手が悪手であるかどうかはその後の展開で変化するから
即時に判断は出来ない。
一つの局面を迎えた。

次からの進藤の数手を、非常に興味深い流れをオレは目にする事が出来た。

ふいに大きな音と怒声が会場内に響いた。
何やらギャラリーと打ち手でのちょっとしたトラブルだったらしく、
場内は騒然とし全ての注目がそちらに移った。
その騒ぎから切り取られた空間に居る者らがいた。
進藤と、進藤の相手の村上、それを見守るオレと、そしてもう1人。
対局を終えたアキラが立ち上がり、一歩一歩こちらへ近付いて来る。
興味がないと言っていたはずの、進藤の盤面に引き寄せられてやって来る。

若獅子戦の翌日、行き付けの店までオレを探しに来たアキラはその後オレの部屋で、
健気な程に口には出さず進藤の碁の内容を得ようと努力していた。
あまりにもアキラの行動が明確であからさまで、それをいい事にオレは弄びたいだけ
アキラを弄んだ。本心を話さぬその口を別の事に使う方法を教えこんでやった。


(52)
ホテルの最上階の窓から見える夜景は、どこも似たようなものである。
目にする者の心境でそれは違ったものに見える。
手に入れたい物が多すぎたその時のオレにとって、その夜景はひどく薄っぺらい
壁紙のようにしか思えなかった。
夜景を眺めながら、アキラには語らなかった進藤の一局を思い返す余裕もあった。
面白い手合いだった。
勝敗を決定付けるような悪手にしか見えない手を打ちながら、それをもって
相手を誘いこみ、好手に変化させるという流れはプロを相手にそう易々と
出来るものではない。
結果的に進藤は負けたが、その原因は終盤の経験量の違いから来るヨセの技工の差だ。
用意された演出のように、その場に居合わせてそれを見届ける事が出来た。
「―アキラや先生と同じように、オレも進藤を気にかける資格を得られたという
わけだろうかな…」

「やア、緒方くん」
せっかくいい気分に浸っていたところを聞きたくはない声で名を呼ばれ、仕方なく振り返る。
「…今お着きですか、桑原先生」
本因坊タイトル戦の相手がひょうひょうと笑顔で近付いて来る。
「北海道など近いものじゃな、どうだ、前夜祭など抜け出して夜の街に繰り出さんかい?」
今まで何度となくタイトル戦で桑原とはぶつかってきた。
だが今までオレはこの老棋士からは最終的な勝利を奪えないでいた。
相性以前に、世程前世でこの人物から恨みをかうような事でもやらかしたらしい。
「お元気ですね。明日から二日に渡って一局打とうというのに」
「キミはちょっと肩に力が入り過ぎじゃの」


(53)
そう言いながら頭のてっぺんから足先まで舐めるようにオレを眺めるクセも相変わらずだ。
何よりそれをオレが嫌っている事を知っていて、あえてそれをする。
それでもまだ、会話する気になれたのは先の一戦で勝利を奪えていたからだ。
向こうは向こうで脇を通りがかった「一般人」にサインを求められてえらく御機嫌である。
「ワシのようなジジイに人気が集まるようじゃ囲碁界も先が思いやられるわい、のオ、緒方クン」
慣れた手付きで一筆認めて色紙を相手に渡す。
そうして再びこちらに向き直った時はその表情は一変していた。
「一局目はやられたが今度は負けんよ。このジジイから本因坊のタイトル、取れるものなら
取ってみな」
桑原お得意の緩急を加えた脅し方だ。好々爺の表情の後で妖怪のような目で睨む。
「…桑原先生、囲碁界に新しい波が来ます。これは予感です。」
そう伝えながら、オレの脳裏に走ったのはアキラだけでなく進藤の姿だった。
アキラの足音だけは、いくら情勢に疎い老いた連中もそろそろ聞き分ける頃合だ。
その足音の影で、アキラを追うもう一つの足音がある。まだその名を、進藤という存在を
この男に伝える事はしなかった。
だがあの若獅子戦の時からオレの耳もはっきりその足音を捉え始めたのだ。

アキラが二段に昇格したという知らせを本因坊戦さなかの出先のホテルで聞いた。
若獅子戦優勝に続き、大手合いでも連勝を続けるアキラを誰もが驚きの目で見つめていた。
進藤の一戦の内容をアキラに説明してやらなかったことが
目に見えない魔物から必死に逃れようとするかのようにアキラを奔らせていた。
そしてオレもまた、歩を速める必要が来るだろうということを漠然と感じた。


(54)
アキラが歩みを速めれば自然オレとの距離が縮まる。
既にオレが感じている程の距離感は彼は持っていないのかもしれない。
実際オレを射程内に捉えているかのようなアキラの言動が鼻につき始めていた。
その焦りが悪い方に出た。

桑原を破る事は出来なかった。
封じ手をあえてとらされ精神的に揺さぶられるという小細工にまんまと引っ掛かってしまった。
終局が見えた盤面をこちらが歯噛みをして見つめる様を桑原は最上の娯楽でも眺めるように、
生きた鼠を檻のまま水に沈めてもがき溺れ死ぬのを楽しむかのようにしていた。
「…ありません…」
冷えた指先で眼鏡を押さえて表情を見られるのを防ぎ、答えるのが精一杯だった。
「ふむ。」
腹の中で高笑いをしているだろうに、表向きは神妙な面持ちで桑原は頷く。
その脳裏でさぞかしオレを嬲り者にして味わっている事だろう。
防衛を果たした老齢のベテラン棋士をたたえるカメラのフラッシュが瞬く中で
その部屋を出て扉を閉めるまでは自分を押さえる事が出来た。
「緒方クンはよくやったよ。新しい波を受けて立つに役目というものは何度やっても
骨が折れるわい。ヒッヒッ」
意気揚々と声高にインタビューに答える桑原の声に捕まらぬうちにそこを離れた。
他のどの対局を落とすよりもその桑原との一戦は痛かった。


(55)
何かが軋み、骨と肉が分離するような違和感を感じていた。
「塔矢門下生での若手ナンバー1」「若手の旗手」などと長く呼ばれていたが、
それらの声がいつしか皮肉混じりになりつつあるのも感じていた。
このままでは先生を追う資格すら失うような喪失感を感じた。
東京に向かう飛行機の中で、ホテルから見た同じ街の夜景を眼下に眺めながら
突然、実は自分はまだ何もてにしていないのではないかという不安にかられた。
手に入れたようなつもりになっていてその実何も手の中に残っていないような、
アキラとの事さえも淡い夢だったような、そんな虚無感に襲われた。
心身共に疲れ果ててマンションの自室に戻り、シャワーを浴びて強めの酒を呷りすぐさま
ベッドに潜り込んで眠ろうと努力した。
ふと、若獅子杯の次の日にここに来ていたアキラの姿が浮かんだ。
非道とも言えるオレの行為を黙って受け入れていた痛々しい彼の姿だ。
「…もう二度と来ないかもしれないな…」
商売女にさせるような行為をアキラにさせたのだ。
オレの名を呼び、オレを慕い、寝ているオレの唇に重ねてくれたアキラの柔らかい
美しいその箇所をオレは汚した。
その奥の凛とした涼やかな声を出す場所に自分の分身を押し込み灼いた。
その箇所が他の者の名を呼び親愛の言葉を唱えるのを封じたのだ。
その味を味わったアキラはすぐさま洗面台に駆け込み胃液と共に戻した。
青白い顔でベッドルームに来たアキラに再度同じ行為を与えて二度目は洗面台に立つ事を禁じた。
泣きもせず、ただ空ろな表情でアキラは従った。



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