誘惑 第一部 51 - 55


(51)
「アキラ、何度も言ったが、何か着ろ。」
バスルームから素裸で出てきたアキラに、眉をひそめながら、緒方が言う。
「だって、暑いし。ハダカの方が楽じゃないか。」
と、アキラもまた、何度も同じ事を言わせるな、と不服げに返す。
「今更、気にする事じゃないでしょう。」
「こっちは気にする。目に毒だ。」
そうしてアキラのためにわざわざ洗面所に置いておいたバスローブをまた取りに戻り、裸のまま
ベッドの上に転がっていたアキラに声をかけた。
「おまえ、進藤相手でも、あいつの前でもそんななのか。」
「なっ…!」
緒方の持ち出した名前に、アキラがかああっと頬を赤く染め、それから彼の手からバスローブを
乱暴にひったくると、緒方に背を向けてそれを着込んだ。
「アキラ、」
アキラの反応に緒方は軽く驚いて目を見開いた。
「オレの前じゃ平気なくせに、」
からかうように緒方が言うと、アキラは赤くした顔をぷいと横に向けた。
言いながらも、緒方は自分を呪いたいような気分だった。羞恥に顔を赤らめるアキラなんて見た
ことがない。結局はそうなんだ。オレではないんだ。だが…だが、それでいい。都合のいい勘違い
なんか、少しでもしないほうがいい。こいつはオレのもんなんかじゃない。忘れるな。
そう思いながら、緒方はサイドテーブルにおいて置いたグラスを手に取る。と、
「何、飲んでるんですか?」
アキラが誤魔化すように、緒方のグラスを奪う。一口飲んでそれをゆっくり味わい、満足げな笑み
を浮かべると、残りを一気に飲み干す。そして催促するように緒方に向かって空のグラスを突き出
した。緒方は呆れたようにため息をつきながらそれを受け取り、おまえはまだ未成年だろうが、と
ぼやきながら部屋を出た。


(52)
透明な液体を舌の上で転がすように味わいながら、アルコールのために幾分饒舌になったアキラ
が緒方に問う。
「ねえ、緒方さん、緒方さんの初めてのひとって、どんな人でした?」
「初めてって、最初の女か?覚えてるか、そんなもん。」
そう言って、アキラを軽く睨む。
「どうせおまえの言うように大して好きでもないような女だったしな。
やらせてくれるなら誰でもいいってやつか?」
「…そんなもんなんですか?」
「そんなもんだよ。悪かったな。」
言いながら、緒方はグラスの中身をくっと呷って氷だけになったグラスをからからと鳴らし、
「ああ、だが、男相手という意味ならおまえが初めてでおまえだけだがな。」
と、にやっと笑いながらアキラを見た。その言葉にアキラは軽く目を見開いて緒方を見た。
「…そうなんですか?」
「ああ。だから言うなればオレはまだバージンだぜ?」
緒方の言い方に、アキラは小さく吹きだす。
「なんですか、その言い方。………でも…って事は……それはちょっと勿体無いかもね。」
あの味を知らないなんてね、と言うようにアキラはククッと喉の奥で笑う。
「何事も経験でしょう?」
と言って、緒方をからかうように見上げる。
「そんなに…イイのか…?」
「それは…それをあなたが言うんですか…?そんな事を?」
ボクをあれだけ泣かせてるくせに?言外にそんな事を匂わせながら呆れたようにアキラが言う。
「確かによさそうだな…」
その言い方にアキラはクスクス笑い出した。
「何を、今更そんな事、言ってるんですか…?おかしいですよ。やだな、緒方さんてば。」
可笑しそうに笑うアキラに、軽くムッとしながら、緒方が言う。
「それじゃあ、そんなにイイって言うんなら、おまえが教えてくれるか?オレに?」
一瞬、何が言いたいのかわからない、そんな目をして、それから緒方の言った台詞を繰り返す。
「ボクが?緒方さんに?」
そして今度こそ本当に驚いて、目を丸くして緒方を見た。


(53)
「本気で言ってるんですか?そんなこと。」
「そんな…言い方は……オレだって傷つくぞ…」
「だって、アハハ、そんな事、考えた事もなかった。
折角のお申し出で、とっても残念ですけど、残念ながらその気にはなれないなァ。」
こらえ切れずに声をたてて笑い出したアキラを緒方は忌々しげに見た。
「それにボクは、」
進藤以外では役立たずのような気もする。
そんな気がして、アキラは軽い自嘲の笑みを唇の端にのせた。
抱かれるのは誰にだって、進藤でも緒方さんでも、和谷でも、他の誰でも。きっとボクの身体は
相手が誰だって反応し、それなりの快楽を味わうだろう。
けれど、抱きたいのは進藤だけだ。
こぼれ落ちそうな大きな瞳。陽に透けてキラキラ輝く明るい前髪。そして、健康的に日焼けした
滑らかな皮膚。最近は随分と逞しくなってきた肩。そこだけは日焼けしていない、小さく引き締
まった形の良い双丘。塔矢、と呼ぶ甘い声。
目を閉じ、ヒカルの姿を想像しながらうっとりとした笑みを浮かべたアキラを、
「こら、」
と、緒方の手が顎を捉えて上を向かせた。
「誰の事を考えているんだ?」
緒方の薄茶色の瞳がアキラを覗き込んだ。
「それは、決まっているでしょう?」
にっこりと微笑んで、アキラは緒方の瞳を見返した。
「ここにこうしてオレといるくせにか?」
「きっと、どこにいても。誰といても。」
ボクは進藤しか愛せない。
「あなたの事は大好きだけれど、」
と、言ってから一旦言葉を切って目を伏せ、それから顔を上げて正面から緒方の顔を見つめる。
「愛してるのは進藤だけなんだ。」


(54)
「知ってたさ、そんな事。」
フッと、小さく笑いながら緒方が答えた。
「知らなくてどうしておまえを手放したりできたと思うんだ。」
そう言いながら緒方は優しく微笑み、慈しむような目でアキラを見た。
「緒方さん…」
緒方の言葉と、表情に、胸が詰まった。
ごめんなさい、とか、ありがとう、とか、そんな月並みな言葉では言い足りない。
けれど、アキラの口から出たのはもっと月並みな言葉だった。
「…大好きだ、緒方さん。」
「それも、知ってるよ。」
「…うん。」
「そんなわかりきった事を確かめるためだけに、オレを誘惑したのか?」
「……うん。」
「バカだな。」
そう言って緒方はアキラの頭を小さく小突いた。アキラは緒方を見上げ、泣き出しそうな顔で弱々しい
笑みを浮かべた。そんなアキラを、緒方は変わらぬ笑顔で見守っていた。
この微笑みを、ボクはよく知っている。
ずっと幼い頃からボクのそばにあった、ボクをいつも見守ってくれていた微笑み。
この人はいつも優しくて、ボクはこの人が大好きだった。だから、いつも安心してわがままを言った。
そしてこの人はいつでも笑ってボクのわがままを受け止めてくれた。
でも、ボクはもう小さな子供じゃないんだから、いつまでも子供みたいに甘えてちゃいけないんだ。
アキラのそんな胸中に気付いたのか、
「さあ…」
と、緒方が促す。
「もう、いいだろう?」
おまえはおまえの帰るべきところへ帰れ、と。
アキラはこっくりと頷いて、立ち上がった。


(55)
アキラが着替えている間に、緒方はPCを起動し、データを一つフロッピーに落とす。
ネクタイをきゅっと締めながら、寝室から出てきたアキラに、緒方はそのフロッピーを手渡した。
「前に約束してた棋譜だ。もう不要なものかもしれんがな。」
アキラは手渡されたフロッピーと緒方の顔とを交互に見る。それからきゅっと唇をかみ締めて、その
フロッピーを上着のポケットにしまい、緒方に背を向けて玄関に向かう。
無言のまま靴を履き、そしてすっと背を伸ばすと、アキラはもう一度緒方を振り返った。
こうやってこの人の瞳を直に見るのもこれが最後なのかもしれない。そう思って、薄茶色の緒方の
瞳を見つめた。見つめるうちに涙が溢れそうになってきた。
無意識にアキラの身体が動いていた。
緒方に向かって手を伸ばし、顔を引き寄せて、唇に唇を重ねた。

奪うのではなく奪われるのでもなく、そして闘うのでもなく、また、ただ与えるのでもなく。幾度とな
く触れたこの唇から、アキラを―アキラの心を、受け取るのは初めてのような気がした。
そしてこれがきっと最初で最後。
やっぱりおまえは自分の残酷さに気付いていないんだな、アキラ。緒方はそう思いながら、彼の
唇に最後の思いを送った。
唇を離すと、アキラの目に、涙はもう浮かんでいなかった。そして緒方に小さく微笑みかけると、
ドアノブに手をかけ、マンションの重いドアをゆっくりと開けて、アキラは緒方の部屋を出て行った。
かちゃりと音を立てて、静かにドアが閉まった。



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