誘惑 第三部 51 - 55
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「んじゃあ、今日は、塔矢門下の寂しい一人もん同士って事でー、かんぱーい!」
大仰にジョッキを差し出した芦原に付き合って軽くグラスを合わせながら、緒方が呆れ声で言った。
「なんだ、知らないのか、芦原。」
なにが?ときょとんとしている芦原を眺めながら、
「こいつは外れもんだ。ちゃっかり元の鞘に納まってるんだからな。」
そう言って、アキラを見てニヤニヤ笑う。
「なんで、知ってるんですか、緒方さん…」
微妙にうろたえ加減でアキラが応えた。
「なんで、だって?見りゃわかるさ。最近のキミを見てれば。」
言われて、アキラはそっぽを向いたが、その頬が微かに赤くなったのに、芦原は気付いた。
羨ましい。
「ちぇー、なーんだ、そうなのか。
なんだよ、だったらさっさとそう言えよ。オレだって心配してたんだからさあ。」
そういってひとしきりぼやいてから、芦原は笑って自分のジョッキをアキラのグラスにぶつけた。
「でも、よかったな。仲直りできて。うん。オレも嬉しいよ。」
「う、うん。ありがとう、芦原さん。」
照れたように言うアキラを見て、芦原は天井を見上げて溜息をついた。
「あーあ、羨ましいなあ〜。オレにもちょっとは幸せを分けてくれよ〜。
あ、でも、まだ緒方さんって仲間がいるか。ね?
それとも、もしかして緒方さんも裏切り者なんですかぁ?」
「オレか?どうせオレは振られたまんまさ。」
アキラがちらっと緒方を見て、それから何食わぬ顔でグラスを口元に運んだ。
その様子を目ざとく見つけて、芦原が訝しげに首を捻った。
「おまえ、もしかして、知ってるのか、緒方さんの事。」
「いえ、別に、ボクは…」
「ずるいぞ、緒方さんも、アキラも、オレだけ仲間外れにして。教えろよ、おい。」
「本当の話を聞きたいか?芦原。」
「聞きたいですよ。」
「実はな、こいつなんだ。オレを振ったとんでもない奴っていうのは。」
言いながら、緒方はアキラを目で指し示した。
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緒方の台詞に、芦原も、アキラも目を丸くした。ことにアキラは、返す言葉がなかった。
いきなり、何を言い出すんだろう、芦原さんの前で、この人は。
だが緒方がニヤニヤしながらアキラを見ているのに気付いて、アキラは緒方の話にのる事にした。
「実は、そうなんです。」
にっと笑いながら、アキラが芦原に答えた。
「アーキラぁ、」
ふざけるのはよせよ、という風に、芦原がアキラを見る。
「緒方さんがおまえと付き合ってて、でもおまえが緒方さんをふったとでも言うのかよ?
ええ?それじゃ、喧嘩の原因になった浮気相手って言うのは緒方さんだって言うのか?
それならおまえの今の相手は誰なんだよ?」
「進藤ですよ。」
何食わぬ顔でアキラが答えた。
「進藤ォー?、おまえ、冗談とは言え、よくそんな名前、持ち出すな?
進藤が聞いたら怒るぞ!?」
「だって本当の事ですから。」
睨みつける芦原ににっこり笑いかけてアキラが続ける。
「本当ですよ。それにボクが進藤の事になるとタガが外れるのは芦原さんもご存知でしょ。」
「知ってるよ!!おまえが、昔っから進藤、進藤、ってあいつにはムキになってたのは!
でも、そうじゃなくって!今は女の話をしてるの!!ライバルじゃなくて、恋人!!誰だよ!?」
「だから進藤だって言ってるじゃないですか。
それに別にどうだっていい事でしょ。男だとか女だとか。ねぇ、緒方さん?」
「…そうだな。」
「緒方さん、あんた、いつから両刀になったんですか。え?」
「コイツの色香に惑わされてからかな。なあ、アキラくん?」
そう言いながらアキラの顎にかけた緒方の手を、アキラはパシッと軽く払った。
「馴れ馴れしく触んないで下さい。ボクに触っていいのは進藤だけなんですからね。」
「ずるいっ!汚いっ!二人して、オレをからかって…!
アキラ、おまえはいつからそんな人をからかって遊ぶようなヤツになったんだ!」
「ええー、別に、昔っからじゃないかなあ?」
「おまえっ、この間はオレが親切に相談に乗ってやって、しかも全部奢ってやったって言うのに、
その恩も忘れて…」
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「なんだ、芦原なんかに相談したのか?」
「あんたよりはマシでしょ。
ふふん、羨ましいんでしょ。アキラの相談してくる相手が自分じゃなくってさ。」
「誰が。相談なんて名前ののろけを聞きたい奴なんているか。
大体、オマエに相談して、何の役に立つって言うんだ?」
「緒方さん、あなたね、あなたが前に失恋したって落ち込んでた時に慰めてあげたのは、一緒に
飲んであげたのは誰だと思ってるんです。
まーったく、兄弟子の失恋には自棄酒を付き合ってやり、弟弟子の恋の相談には乗ってやり、
あーあ、オレって何て優しいんだろ。」
「自分で言うか、バカ。」
「だって自分で言わなきゃ誰も言ってくれないんだもん。緒方さんもアキラも薄情だからなあ。」
「そんな事ないですよ、感謝してますよ、芦原さん。」
「言われてやっと言うんじゃなくってさあ、それならもっと感謝の意を示してくれよ、アキラ。
それにしても、一体、いつの間に仲直りしたんだあ?」
「オレは知ってるぜ。」
「何?何ですか、緒方さん?」
「アキラくんと一緒に中国に行ってた奴らの一人がこの間、ぼやいてたからな。
塔矢アキラは帰国の日は一日ずっとそわそわと落ち着かない風で、成田に着いたら出迎えも全部
無視してあっという間に消えちまったって。一体誰に会いに行ってたんだろうなあ?」
「…ええ、お察しの通りですよ。」
「やっるなあ。成田から直行で会いに行ったのか?
そりゃあ、カノジョもほだされるよなあ。うっわ、情熱的。
それで?何て言ってヨリ戻したんだ?」
「ええ、そりゃあもう、土下座する勢いで謝って、何があってもそれでもキミが好きだからって、
縋りついて泣きついて、許してもらいましたよ。」
「おまえが…そんな事、するのか?」
「だってプライドなんてどうでもいい事でしょ。そんな事より、大事な人を取り戻す事の方が。」
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「…やってらんねぇ。」
ぼそっと芦原が呟くように言った。
アキラは済ました顔でグラスを口に運んだ。
「あーあー、ご馳走様、良かったね、全く。」
「どういたしまして。」
「畜生、この野郎…ふん、いいか、これに懲りたらもう彼女泣かすんじゃないぞ!大事にしろよ!」
「え、う、うん。勿論。」
「もう浮気なんかすんじゃねーぞ?」
「ええ、はい、そうですね。まあ、とりあえず当分、浮気は慎む事に…」
「って、違うだろ!とりあえず当分、ってなんだ、当分、ってのは。
金輪際しません、ぐらいの事、言え!まだ懲りてないのか、おまえは!!」
「あ、いや、今、当分って言ったのは言葉のアヤで…、それに、しようと思ってもできないよ。
そんな事させないようにずっと見張っててやるー、って進藤が言ってくれてるし、」
「だから、進藤って言うなって言ったろ!いい加減にしろよ!」
「だってホントのことだもん。信じないんですか?」
「信じるわけ無いだろうが!!」
「ほお、その割には今日は進藤はいないじゃないか?いいのか?オレと飲んだりして?え?」
そう言いながらまた、くいっと顎を持ち上げた緒方の手を、アキラは同じように軽く叩いた。
「あなたとの事はもう完全に終わったんだからいいんですよ。それに芦原さんもいるしね。」
手は厳しく払いのけながら、にっこりと笑ってアキラは言う。
その様子に、芦原がふくれっ面で文句を言って、突っ伏した。
「も〜お、いい加減にしてくれよ〜、アキラも緒方さんも〜
ズルイよぉ、オレばっかのけもんにしてさぁ〜」
「まあまあ、そう言わずに…ホラ、グラス空いてるじゃないですか、次、何にしますか?」
芦原の頭を撫でようとしたアキラの手を振り払い、芦原はぶん、と頭を振って、アキラの持っていた
メニューをひったくった。
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「……わかった。今日はアキラの奢りだ。思いっきり呑んでやる。」
「えっ?」
慌てたアキラに、
「そうだな。」
緒方が冷静に応えた。
「じゃ、次は何頼もうかな。ちまちま頼むのも面倒だからボトルで行くか。どうせアキラの奢りだしな。」
芦原は浮かれたように鼻歌を歌いながらメニューを眺める。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、本気なんですか?」
「当たり前だろ。ねぇ、緒方さん。」
「当然だ。ホラ、芦原、何でも好きなの頼んでいいぞ。」
「そんな、ひどい、ボクが一番年下なのに…二人とも大人のくせに、子供にたかる気ですか?」
「うるさい、こんな時だけ子供ぶるんじゃない。」
「そうそう、一番シアワセなヤツが奢るもんだ。それが世の習いってもんだよ、アキラくん。」
「んじゃ、アキラと進藤君の前途を祝して、それからオレ達にも幸せな明日が来るように、
景気よくドンペリでも頼むか。」
「何言ってんですか、あるわけないでしょ、こんな居酒屋に。
もうっ!緒方さんも、笑ってないで何とかしてくださいよ!」
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