黎明 51 - 55
(51)
「なぜ…そんな寂しいことを言うんだ…?」
「僕の想う人は、他の人を見ているから。」
そう言ってアキラは小さく微笑った。その寂しげな微笑みに、ヒカルは胸が痛むのを感じた。
「だから、こんな事を言うと君は怒るかもしれないが、むしろ、あれほど苦しみ悩むことの出来る
君をほんの少しだけ羨ましいと、僕は思ったよ。」
応えることができずに、ヒカルは小さく首を振った。
「僕の想う人は僕の想いを知らない。知らないまま他のひとを見ている。
けれど例えその人が僕を見なくても、けして僕を愛さないと知っていても、僕はその人が生きて
いてくれるだけで幸せなのだと、僕は思う。僕は……」
アキラは言葉を詰まらせた。
「…それだけでいい。その人がその人らしくこの世にいてくれれば…」
君が君らしく生きていてくれればそれだけで僕は幸せだ。
なのに、一番大切な人を亡くしてしまった君の前で「生きていてくれれば」なんて口にしてしまう
なんて、それがどんなに君を傷つけるか口に出すまで気付かないなんて、こんな僕が君を望む
なんて、こんな強欲は、それこそ秩序を超えようとするような罪悪だ。
「すまない…君の前でこんな事を言うなんて。それでも…」
何かをこらえようとアキラの身体が震えるのを見て、ヒカルはその身体を抱きしめてやりたいと
思った。自分を闇の淵から救い出してくれた、この凛とした、何にも負けない強い眼差しを持った
年若い陰陽師が、こんな風に見ていて切ないほどの哀しみに身を震わせるのを、初めて見た。
そして、彼をこんな風に哀しませるのは一体どこの誰なのだろうと、思った。
彼にこんな風に想われて想いを返さずにいられるなんて、気付かずにいられるなんて、よっぽ
ど鈍感な馬鹿者だ。その人は他の誰かを見ているのだと彼は言っていたが、彼以上の者なん
てそうそういはしないだろうに。
そんな事を考えてしまうのは心のどこかでその誰かを妬ましく思っている自分がいるからだと
いう事に、ヒカルは気付かないふりをした。それは誰だと、問いたい気持ちは口には出さず、
ただ、彼の想いがその相手に届くことがあればいいのに、と思うだけで、その誰かを羨ましい
と思う気持ちに蓋をした。
(52)
ヒカルは縁側に座り、冬枯れの庭を見るともなく見ていた。
一陣の風が吹き通り、その風の冷たさにヒカルは身を震わせた。
そしてふいにアキラに抱きしめられた時の、彼の腕の力強さと、彼の身体の熱さを思い出した。
それから、彼が想い人を語った時の、眼差しの奥の秘められた熱情と、深い悲哀を思った。
その熱いまなざしが、誰か、自分の知らない人に向けられたものなのだという事が、なぜだか
わからないけれど、とてつもなく、寂しかった。
ヒカルの目に涙が浮かび、一筋、頬を伝って流れた。
その涙が、アキラの悲哀が自分にも伝わったためなのか、それとも何か他の涙なのか、ヒカル
にはわからなかった。けれど佐為を失った悲しみではないことだけは確かで、自分にそれ以外
の涙が残っていたのが、何か不思議だった。
いや、それは残っていたものではなく、新たに生まれたものなのかもしれない。そう思って更に、
自分の中に新たに生み出されるものがあった事にヒカルは驚いた。
佐為を失って、自分は何もかも失くしてしまったように思っていた。
だがそれはもしかしたら間違いっていたのかもしれないと、この時初めて思った。
庭に降り立ち天を仰ぐと、天空は晴れわたり、月のない夜空にはけれど星がきらめいていた。
「佐為…」
天を仰いで星を見上げ、ヒカルは逝ってしまった人の名を呟いた。
愛した人に愛された記憶を持つ自分は、確かに幸せだったのかもしれないと思いながら。
(53)
ゆっくりと、ヒカルの身体は快復していった。
ヒカルは剣の稽古を始め、落ちてしまった筋肉を取り戻そうと、鍛錬を始めた。
けれどそうしながらも、ヒカルは自分が完全に復調することを恐れていた。
そうしたらここを出て行かなければならない。
それが嫌だった。
それ程に、ここは居心地がよかった。
あれ以来、アキラは自分の心を語ることをしなかった。そしてヒカルに何かを問うことも、しなかっ
た。ただ、ヒカルの身体をいたわるように、吟味した滋養に溢れた食事を彼のために用意し、黙っ
て彼の快復を待った。
式を残して、宮中に出かけることもあったが、その時もヒカルへの温かい食事は忘れられる事な
く出された。
最近になってアキラが頻繁に留守にするのも本当はヒカルのためで、ヒカルを元の職に復帰させ
るために奔走しているのだということは、ヒカルにもわかっていた。
けれどヒカルはその気遣いに一抹の寂しさを感じていた。
何も問わず、責める言葉の一つもなく、ただ黙ってヒカルを受け入れてくれるアキラという存在か
ら、ヒカルは離れがたく感じていた。
彼がヒカルを見るときの穏やかな微笑みは、先に逝ってしまった人の春の日差しのような暖かい
微笑みとは全く違っていたけれど、けれどその微笑みを見ると、ヒカルは自分の心が不思議に落
ち着くような気がした。
(54)
夜遅く帰宅したアキラに、寝ないで彼を待っていたヒカルは、訴えるように、こう言った。
「俺、ここを出て行きたくない。ここにずっといたい。ここに、ずっと、置かせてくれよ。」
ヒカルの言葉にアキラは驚きに目を見開き、ゆっくりと瞬きしてから、首を振った。
「駄目だよ。」
「おまえはいつもそう言う。」
アキラの否定の言葉に抗うようにヒカルは言う。聞き入れられない事など知っていたけれど。
「ここは君の仮宿にすぎない。君は在るべき所に在り、為すべきことを為さねばならない。
ここにいて君は何を為すことができるというのだ?」
わかっている。ここですべき事がある訳ではない。そうではなく、自分はただアキラと離れがたく
感じているだけなのに、どうしてそれをわかってくれないのだろう。そう思うと哀しくなった。
「一局、打たないか。」
静かに言う声に、ヒカルは弾かれたように顔を上げた。その様子に気付いているのかいないの
か、アキラはすっと立ち上がり、部屋の隅にあった碁盤を運んで彼の前に置いた。
碁石を持つのは本当に久しぶりだった。
もう一度碁を打つ自分がいる事など、考えもしなかった。佐為を思い出すものは全て自分から
遠ざけていたから。けれどこうしてアキラと打っていると、その横で楽しそうに対局を見ている
佐為がいるような気がして、ふとヒカルは顔をほころばせた。
そして、悲しみ以外の思いで佐為を思い出している自分がいることに気付いて、ヒカルは驚いた。
碁を教えてくれたのは佐為だった。
佐為が逝ってしまっても、自分はこうして碁を打っている。
死んでしまった者がまだ生きている者の中では生き続けている、というのはこういう事かもしれ
ない。俺が生きている限り、俺が忘れない限り、俺の中に佐為はいて、例えば佐為に教えても
らった碁を誰かと打って、その誰かが自分と打った碁を覚えていたら、それは佐為を覚えてい
る事にはならないか。それは佐為がその人の中でも生きている事にはならないか。
(55)
佐為のあとを追うことは出来なかった。
それはなぜだろう。
置いていかれてしまった事がつらくて、佐為のいないこの世には何の意味も無いと思って、それ
でも、死んでしまいたいとは思わなかった。佐為のいないこの世など消えてしまえばいいと思っ
たのに、自分が消えてしまおうとは思わなかった。それななぜだろう。わからない。
そうして、死んではいなかったけれど生きてもいなかった自分は、今、確かに生き返って、こうして
碁を打っている。不思議だった。
こんな静かな気持ちで碁を打ち、佐為を思い出す日がくるとは、夢にも思わなかった。
小さく顔を上げて、碁盤の向こうの対局相手の姿を盗み見た。彼は自分の視線には気付かずに
真剣に碁盤を見つめている。
彼がいなかったら、こうして己を取り戻す事は出来なかったろう。
佐為を懐かしむ事など、出来なかったろう。
彼は何も言わない。
いつも静かに微笑んで、黙って自分を見る。
けれどその静けさの内に、どんなに激しい熱情が潜んでいるか、自分は知っている。冴えた月の
ように冷ややかに見えるその面の奥に、研ぎ澄まされた刃のような印象を与えるその姿の裏に、
どんなに熱い身体を持っているか、知っている。
彼がふと目を上げた。
視線が合って、彼は柔らかく微笑んだ。
その微笑みに、胸がキリキリと痛んだ。
そんなヒカルを見て彼は訝しげに小さく首を傾げ、けれど微笑んだまま視線を落として、また一つ、
石を置いた。
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