落日 51 - 60


(51)
私は噂話というものは好まぬ。ましてやそれが己を遠ざけるように囁かれ、近づいたときにはぴたり
と話し止まれてしまうようなものは。初めは気にもかけなかったが、度重なれば気に障る。またもや
私の姿を見て口を噤んだ男を、耐えかねて捕まえ、問うた。「今話していた話を続けよ。」と。
「は…しかし……」
けれど彼は容易に口を割ろうとはしなかった。どうやらその話の内容によって私の不興を買う事を
恐れているようであった。馬鹿馬鹿しい。既におまえは不興を買っているというのに。
「私の前では話せぬ話があると?」
「いえ…そのような、」
「では、申せ。」
正面から睨み据えればもはや拒み続ける事などできる者はいない。
「……主上の思し召しとあれば…申し上げます。」


(52)
「五条の…?」
その者の口からその名が漏れた時、私は鬼のような形相をしていたのかも知れぬ。
常なれば口にする事を許されぬ禁忌に、事もあろうにそれを禁じた当の本人に向かって口にして
しまった事に、彼の顔がさっと蒼ざめた。けれど私は先を促し、そこで話を断つ事を許さなかった。
怯えながらも彼は続ける。
彼の話に半ば耳を傾けながら、その女を思い出していた。
美しい女だった。けれど、それ以上に恐ろしい女だった。甘くむせるような香に溺れて、ただ一度、
契りを交わした。誑かされた、という方が正しいかも知れぬ。あの香の正体が何であるかは知ら
ぬ。けれどあの香に惑わされなければ、父の女と関係を持つなど、いかな自分と言えど、ありえ
ない事だったろう。人に知られれば二人とも身の破滅であろうに、何を思って憎いはずの女の息
子に手を伸ばしたのか。
真意などわかろう筈もない。
いや、それとも、あの頃既にあの女は壊れかけていたのかも知れぬ。なぜなら私に貫かれ私に
絡みつきながら彼女が呼んだのは、私ではなく彼女の息子の名だったのだから。最愛の息子を
失って、もはや恐れるものなど何もなかったのだろうか。それとも彼の死の遠因である私を肉欲
に引きずり込むことによって、復讐を遂げようとでも思っていたのだろうか。
甘い香に幻惑されながら、じっとりと熱く甘く、うねるように己を包み込んだ肉がその時私に与え
たものは、快楽よりも恐怖に近く、それ以来、私にとって女というものは恐ろしく、またおぞましい
存在でしかない。

そのような苦い思い出に耽っていた時に、また、もう一つの名を聞いた。
五条の御方。先の囲碁指南役。そのような呼び方でさえ、それは口に乗せられる事を禁じられた
名だった。言の葉に乗せることもなく、けれど確かに私はそれを禁じた。迂闊にその名を口にした
ものの行く末から、人々はそれが禁忌である事を思い知ったのであろう。その二つは私にとって
は全く違った意味で、二度と、触れたくはない名だった。
なぜそれらの二つの名がここで結び付くのか。
彼らが口を閉ざしたがるのもわかるような気がした。


(53)
けれどそれでも私は先を促す。
「彼の警護役……?」
確たる証しは無いのですが、と彼は言う。当たり前だ。伝え聞いた噂話にそのようなものがあろう筈
がない。
だがそれが「彼」自身の事でなく、「彼」の警護役の事なのだと聞いて、私は途端に興味を失った。
そのようなつまらぬ噂話を、画策して自分から遠ざけようなどとしたのか。
彼に縁りの者がどこで何をしていようと、もはや自分には何の関わりもない。
ただ。
ふとその少年を思い出す。都人には珍しい明るい前髪の、明るい笑顔の少年であったように思う。
あのように目立つ容姿の者であれば、成る程、二つの禁忌に触れる事でも、人々の口の端にのぼり
口さがなく噂されてしまうものなのかも知れぬ。内裏でも何度か姿を見かけた少年の、その名は、何
と言ったろう。確かその名を聞いた時にはひどく合点がいったものだ。だが今、その名が何であった
かを思いだせぬ。
いや、思い出す必要もないだろう。
あの美しい囲碁指南役はもういない。
なれば、彼のかつての警護役が何だと言うのだ。
落ちぶれた家に落ちぶれた者が囲われているというのなら、それもまた似合いであろう。あの女が
見捨てられた子犬を拾っては慰み者にする事など、今に始まった事ではない。それが誰であれ、
自分が何か言い立てる必要などあるまい。
全てはなすがままに、流れのままに流れてゆくしかないのだ。

「よい。捨てておけ。」
そう言い捨てて、先に女御に取り立てた女の住まう宮へと足を運んだ。


(54)
歩きながら彼のことを思い出していた。
実際の所、自分は何も目にしなかったし、だから何の確証もない。
けれど、誰も目にしなくとも自ずと明らかになる真実というものもある。
彼を責めたて、詰り、貶めようと言葉汚く罵った者の醜い顔が蘇る。自らの内部に醜い蛇を飼う者
ほど、他人を悪し様に罵るものだ。罵り言葉など、全てその者の内にあるものでしかない。
どちらに不正があったかなど、言うまでも無い事と思ったが、だがその時自分の胸中にあったのは
別の事だった。不正がどちらにあったかなど、どうでもいい事だった。彼が不正などはたらく筈がな
い。彼を知るものなら誰もがそれを知るだろう。
己を不正を言い当てられそうになって殊更に言い立てる者を彼は非難するように見つめ、それから
何かを求めるように私を見た。その視線を受け止めた私は、けれど己の罪を他人に擦り付けんと汚
れた言葉を吐き連ねるものよりも、さらに醜い顔をしていたのかもしれない。
私を見た彼の美しい面に浮かんだものは、驚愕と、不信と、そして最後に私が見たのは絶望と諦め
の混じった、凄惨ともいえる薄い笑みだった。

どちらに正義があるかなど、どうでもいい。
助けてくれ、と言えばよい。
助けを求めれば助けてやろう。
その代わり――

私の差し出したものは彼の求めたものでなく、それゆえ最後まで彼はそれを拒み、その結果、「帝の
囲碁指南役」は失脚し、この世から消え去った。
その事を悔やみはしない。他の道があったとも思えぬから。


(55)
初めは拒まれているとは思わなかった。己を拒むような者がいるなど、思いもしなかった。
碁盤を挟んで彼と相対し、優美な白い指が自分の打った石に応えるとき、より正しい、美しい筋へ
と導こうとするのを感じる時、なぜか胸が高鳴るのを感じた。
それなのに、盤上ではあれほど優しく自分を導いてくれた彼は、一たび盤を片付けててしまうと、
こちらがどうとりなそうと、柔らかく微笑みながらも、きっぱりとそれらを拒絶した。どれ程高価な宝
物も、珍しい綾錦も、彼の心を動かすには足りなかった。
次第に苛立ちが混ざる。
それでも彼の姿を目にし、対局しながら彼の指導を受け、終局した後にはどこか硬く逸らされる彼
の眼差しを目にする時、正体もわからぬ何かが、胸の中で蠢く。そのざわめきが彼を引きとめよう
とし、だがそのざわめきが彼をまた遠ざける。己が彼を呼び、取り立てようとすればするほど、傍に
置こうとすればするほど、彼は自分を拒み、自分から遠ざかって行った。

それとも拒まれたからこそ自分は彼を望んだのだろうか。
わからぬ。
なぜなら生まれてからこのかた、自分を拒んだものなど彼を除いていないのだから。


(56)
藤原の娘を愛しく思っていたわけではない。愛しいという想いなど知らぬ。ただ、自分の一存のみ
であの囲碁指南役を退けたから、その事で傾いてしまった天秤を元に戻すために、彼女を女御に
取り立て、いずれ子を産めば中宮となるのだろう。
どこか彼に似た面差しのある、その女が傍らから見上げている。
「つい先程まで、新しい女房と碁を打っていたところでしたのよ。
中々の上手のもので、よろしければ主上も一局いかが?」
「いや、碁はよい。」
「あら……確かにわたくしでは主上の相手は務まりませんけれど、あの者でしたら…」
「いや、よい。碁はもう、飽きた。」
「まあ。」
と、彼女は嘆息する。
「以前はあんなに夢中であられましたのに。」
そんな女御の言葉を他人事のように聞き流す。
彼でなければつまらぬ。
いや、碁に夢中だったのではない。彼に、夢中だっただけだ。
美しく優美な青年。白い指先から繰り出される一手。高らかな音をたてて打ち据えられる白と黒の
石。彼との対局は会話だった。自分の置いた石に彼が応え、その石にまた自分が応える。そうして
十九路の小さな都の上に築き上げられる世界。相手が彼であってこそ、その遊びに夢中になった。
その彼なくして、碁など、何が面白いだろう。
きっともう碁を打つ事は無いだろう。そんな気がする。
自分が碁を打たなくなって、残されたあの囲碁指南役はどうするだろう。
どうもしまい。彼は碁を打つ事よりも「帝の囲碁指南役」という名の方が大事なのだから。今更それ
を取り下げる気も無いから、あの者もそれで満足だろう。自分が碁なぞ打たずとも、内裏の中には
何の支障も無い。所詮はただの遊びだ。


(57)
この都において、自分こそが中心たる太陽であることを知っている。
己の望みとは何の関わりもなく、内裏において、都において、この国において、自分こそが天を統
べる日で在った。望む前に全てを与えられ、この世にあるもの全ては己のために在った。それが
天子であり帝たる自分のさだめであり、またつとめでもあった。
何かを望むまでもなく全てを手中にしていた己が初めて望んだ人はけれど己を拒み、それ故に
ここから消えていった。ここに在るものは全て帝たる自分のためのものだから、その自分を拒む
ものはここに在る事はできない。彼はそれを知っていたから、自らここから消えていった。
全てを与えられると言う事はけれど全てを担うと言う事でもあり、だがそれを嘆いてもどうにもな
るまい。自分はそう生まれついてしまったのだから。
帝の子として生れつき、全ての中心たる日輪たることを約束され、また要求され、そして今、その
ようにしてここに在る。それ以外の在りようを自分は知らない。
けれど、日はまた没するものだ。

「何を笑っておられますの?」
女の声で、現世に引き戻される。
笑っていたのか?自分は。いつか己が没する時の事を思って?
それもよい。
己が没してもまた次の陽が昇り、都は変わらずに日々の営みを続けるのだろう。
ひとも、ときも、皆、儚い。
今日の日も、また、沈み行く前に最期の力を振り絞って鮮やかな夕映えを見せている。あれは
己が没する前の最期の輝きだ。
沈みきっても尚、己を忘れてくれるなと言いたげに残照は薄紅く都を染め上げている。けれど
それもやがては力尽き、都は黄昏の中に沈んでいき、そして日の力が完全に没した時、都は
闇に包まれる。
月のないこの夜、ただ星だけがほんの小さな煌きをもって闇を恐れる者どもを救うのだろう。


(58)
残照は既に力なく、辺りは夕闇に包まれようとしていた。
今日の日の、夕映えの不吉なまでの赤さに人々は眉をひそめ、暗く赤く残る最後の光がその力
を失い、常なれば厭うはずの夜闇が訪れてやっと彼らは息をついた。
それでも月のない夜は人々を不安にさせる。
その為に、今夜にでもここを発とうとしていた彼は強引に引き止められた。
更に、湿り気を帯びた風が野分きの訪れを予感させ、今日こそは何があろうと旅立とうと思って
いたはずの彼を、この地へ引きとどめた。月の無い嵐の晩は旅立ちには危険すぎる。捨て切る
ことのできない理性が、それでも早く出立したいと叫ぶ感情を抑え、彼は不安な面持ちで空を見
上げながら、後ろ髪を引かれる思いで屋内へと戻った。

都から遠く離れた東国で、既に儚くなってしまったであろう人を思う。そして残された少年を思う。
彼を思うとざわりと胸が波立つ。そうしてあの日からずっと己を捕らえている焦燥感にまたもや、
身が焼け焦げるような苛立ちを感じる。
あの日、あの人とすれ違ったすぐ後にこちらへ下るようにと命ぜられた。
東国に人を喰らう鬼が出る。先に遣わした陰陽師はけれど逆に鬼に魅入られ、自らの身を鬼に
捧げ、彼の身を喰ってその鬼の力は益々強大になり、土地の者どもは夜ともなればただひたすら
怯えて家に閉じこもるしかなく、そして夜も更ければ、鬼は野を、里を流離い、恐ろしい、哀しい声
が、哀切な唄を吟じるのだという。
それを鎮められるのは、例え年は若くとも、今、都で最も力があると言われる賀茂明その人しかい
ない、と、言われて断ることなどできなかった。
唐突なその命に、「彼」と交友の深かった自分が、図って都から遠ざけらようとするのだろうかとも
疑った。だが勅命とあれば致し方ない。


(59)
今は祓ってしまった鬼の、魂を裂くような吟が耳について離れない。
哀しい存在だった。
人の心の闇が凝縮し、それに押しつぶされて喰らわれた時、ヒトはオニと成る。陰陽師としてその
ような存在と相対したことは無かったではないが、けれどそれでもあのように哀しい存在を知らな
かった。
かつて愛した、そして自分を裏切った愛しい男を呪い、捨てられた自分自身を呪い、世を呪い、全
てを呪い、男の血をひいた幼な子を喰らい、ついには子を攫っては喰らう鬼と成り果てた女。
ひとは誰でもあのような鬼に成り得るのだろうか。
男が女を騙したのではない。裏切ったのではない。女は男の在りようを理解できず、男もまた、己
を曲げて女に寄り添うことはできなかった。

幼い吾子の柔らかな皮膚を切り裂き、血肉を啜りながら鳴く鬼の、哀しい、哀しい、哀しい、という
慟哭の声が、闇に吸い込まれながらも木霊していた。哀しく恐ろしいはずなのに、それでも背筋が
震えるほどに美しく、惹き込まれるような声だった。
その美しい悲鳴が未だ耳に残るような気がする。
女の、男への想いが妄執であったなら、男の、自らの業にかける心も妄執であったのだろう。
男が最後に手掛けた美しい蒔絵の手鏡は、けれど完成される事はなく、妄執を焼き払う炎となって
彼らを包んだ。天にも届くほどの火柱が、鬼を包み、鏡を包み、闇夜を昼に変えるほどの眩さで燃
え上がり、次の瞬間にはぱっと消え去った。
やがて訪れた朝の光の下、土も草も何一つ焼けた後など残さぬその場に、黒く焦げた丸い鏡が、
それだけが彼らの存在した証であるかのように、遺されていた。


(60)
日の落ちる前にここにやっと辿り着いたという都人が、近頃の都の噂話をしている。
「帝の囲碁指南役が代わられたという話を聞きましたが…」
何気ないふうを装ってそのように話を向けてみたが、彼はそのような話は知らぬと言った。
「そうですか。」
噂にもならぬほどの事だったろうか。いや、宮中に参内するような貴族でなければそこまで細かな
事など知らぬのも当然なのかもしれない。
最後に見たあの人の、全てを悟りきったような静かな笑顔を思い出す。
都からここを目指して歩いている途中で、不意に足を止めてしまった事があった。何かもわからず、
ただ心がざわめいて、ここを離れてはいけない、戻らなければならないという衝動に駆られた。警護
の者さえいなければ、自分は勅命など投げ捨てて都を目指して走り出していただろう。
けれどそれは許されず、今、自分はここにこうして一人いる。
きっとその時に逝ってしまったのであろう人を思い、そしてまた、残された人を思う。
彼はどうしているだろう。最後に会えたのだろうか。会えなければ会えなかった事に、会ってしまえば
引き止めることもできなかった事に、きっと彼は苦しんでいる。
自分は何もできずとも、傍にいたかった。共に苦しみを分かち合いたかった。



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