落日 52


(52)
「五条の…?」
その者の口からその名が漏れた時、私は鬼のような形相をしていたのかも知れぬ。
常なれば口にする事を許されぬ禁忌に、事もあろうにそれを禁じた当の本人に向かって口にして
しまった事に、彼の顔がさっと蒼ざめた。けれど私は先を促し、そこで話を断つ事を許さなかった。
怯えながらも彼は続ける。
彼の話に半ば耳を傾けながら、その女を思い出していた。
美しい女だった。けれど、それ以上に恐ろしい女だった。甘くむせるような香に溺れて、ただ一度、
契りを交わした。誑かされた、という方が正しいかも知れぬ。あの香の正体が何であるかは知ら
ぬ。けれどあの香に惑わされなければ、父の女と関係を持つなど、いかな自分と言えど、ありえ
ない事だったろう。人に知られれば二人とも身の破滅であろうに、何を思って憎いはずの女の息
子に手を伸ばしたのか。
真意などわかろう筈もない。
いや、それとも、あの頃既にあの女は壊れかけていたのかも知れぬ。なぜなら私に貫かれ私に
絡みつきながら彼女が呼んだのは、私ではなく彼女の息子の名だったのだから。最愛の息子を
失って、もはや恐れるものなど何もなかったのだろうか。それとも彼の死の遠因である私を肉欲
に引きずり込むことによって、復讐を遂げようとでも思っていたのだろうか。
甘い香に幻惑されながら、じっとりと熱く甘く、うねるように己を包み込んだ肉がその時私に与え
たものは、快楽よりも恐怖に近く、それ以来、私にとって女というものは恐ろしく、またおぞましい
存在でしかない。

そのような苦い思い出に耽っていた時に、また、もう一つの名を聞いた。
五条の御方。先の囲碁指南役。そのような呼び方でさえ、それは口に乗せられる事を禁じられた
名だった。言の葉に乗せることもなく、けれど確かに私はそれを禁じた。迂闊にその名を口にした
ものの行く末から、人々はそれが禁忌である事を思い知ったのであろう。その二つは私にとって
は全く違った意味で、二度と、触れたくはない名だった。
なぜそれらの二つの名がここで結び付くのか。
彼らが口を閉ざしたがるのもわかるような気がした。



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