裏階段 アキラ編 53 - 54


(53)
玄関に行き、鍵を開けて戸を開けると先生と夫人が荷物を下に置いて
互いの胸と背に清めの塩をかけ合っているところだった。
「お帰りなさい、お二人ともお疲れでしょう。」
「ただいま、緒方さんのお陰で助かったわ。あら、アキラも寝ないで待っていてくれたの?」
夫人の言葉に驚いて振り返ると、部屋で寝ていると思ったアキラがすぐ後ろに立っていた。
その時アキラはオレの腕に抱き着くと、先生に、
ある意味勝ち誇ったような、父親の所有物を奪い取ったかのような視線を向けていた。

先生と夫人にそのまま泊まるよう勧められたが断り、自宅マンションに戻った。
先生が若い頃過ごしたあの部屋のせいか、アキラを抱きしめた時
子供特有の甘い匂いの中に、微かに、確かにアキラは
父親と同じ匂いを持っていると感じた。その匂いに
伯父の記憶よりも何よりも奥底に封印し蘇らせてはいけないと決めた記憶を
その深淵から思わず引き上げさせられかかったのだ。
あの場所から、彼等から離れる事しかその時のオレにはできなかった。


(54)
それから数日して、久しぶりに先生から「碁を打たないか」と誘いを受けた。
断る事のできる理由も見つからず塔矢邸に向かった。
何か話があるといった様子は先生の声色から受け取れた。
アキラはまだ学校から戻っていなかった。ただもう彼は放課後を碁会所で過ごす事が
日常となっていたので、自分がここに来ている間に顔を合わす事はないと思われた。
打ち合って間もなく先生が静かに話を切り出した。
「…あの子は、アキラは焦れている…。」
「…え?」
「碁の道を進む上での道標を得られず、意識が宙に浮いてしまっているのだ。」
「…それは、わかります…。」
同年代に競い合う者がいない。もう少し待てば、そういう相手が現れるかもしれないし、
現れないかもしれない。オレや芦原のような一時的な目標とする対象とは違う存在である。
「…そういう相手がいないということは自分の位置を見定められず、苦しむものだ。」
「半目を凌ぎあうような対局を何度も打ち合えるような切磋琢磨の相手とは、
我々でもそう出会えるものではないですからね。まして子供の世界では、ムラや集中力の
バラつきも多いですし。」

年令をおう毎に興味の対象も広がる。ましてやこれだけ情報が氾濫している中で、
他を切り落としただ一筋の道を往く事は口で言う程易しくはない。



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