黎明 53 - 54


(53)
ゆっくりと、ヒカルの身体は快復していった。
ヒカルは剣の稽古を始め、落ちてしまった筋肉を取り戻そうと、鍛錬を始めた。
けれどそうしながらも、ヒカルは自分が完全に復調することを恐れていた。
そうしたらここを出て行かなければならない。
それが嫌だった。
それ程に、ここは居心地がよかった。

あれ以来、アキラは自分の心を語ることをしなかった。そしてヒカルに何かを問うことも、しなかっ
た。ただ、ヒカルの身体をいたわるように、吟味した滋養に溢れた食事を彼のために用意し、黙っ
て彼の快復を待った。
式を残して、宮中に出かけることもあったが、その時もヒカルへの温かい食事は忘れられる事な
く出された。
最近になってアキラが頻繁に留守にするのも本当はヒカルのためで、ヒカルを元の職に復帰させ
るために奔走しているのだということは、ヒカルにもわかっていた。
けれどヒカルはその気遣いに一抹の寂しさを感じていた。
何も問わず、責める言葉の一つもなく、ただ黙ってヒカルを受け入れてくれるアキラという存在か
ら、ヒカルは離れがたく感じていた。
彼がヒカルを見るときの穏やかな微笑みは、先に逝ってしまった人の春の日差しのような暖かい
微笑みとは全く違っていたけれど、けれどその微笑みを見ると、ヒカルは自分の心が不思議に落
ち着くような気がした。


(54)
夜遅く帰宅したアキラに、寝ないで彼を待っていたヒカルは、訴えるように、こう言った。
「俺、ここを出て行きたくない。ここにずっといたい。ここに、ずっと、置かせてくれよ。」
ヒカルの言葉にアキラは驚きに目を見開き、ゆっくりと瞬きしてから、首を振った。
「駄目だよ。」
「おまえはいつもそう言う。」
アキラの否定の言葉に抗うようにヒカルは言う。聞き入れられない事など知っていたけれど。
「ここは君の仮宿にすぎない。君は在るべき所に在り、為すべきことを為さねばならない。
ここにいて君は何を為すことができるというのだ?」
わかっている。ここですべき事がある訳ではない。そうではなく、自分はただアキラと離れがたく
感じているだけなのに、どうしてそれをわかってくれないのだろう。そう思うと哀しくなった。
「一局、打たないか。」
静かに言う声に、ヒカルは弾かれたように顔を上げた。その様子に気付いているのかいないの
か、アキラはすっと立ち上がり、部屋の隅にあった碁盤を運んで彼の前に置いた。

碁石を持つのは本当に久しぶりだった。
もう一度碁を打つ自分がいる事など、考えもしなかった。佐為を思い出すものは全て自分から
遠ざけていたから。けれどこうしてアキラと打っていると、その横で楽しそうに対局を見ている
佐為がいるような気がして、ふとヒカルは顔をほころばせた。
そして、悲しみ以外の思いで佐為を思い出している自分がいることに気付いて、ヒカルは驚いた。

碁を教えてくれたのは佐為だった。
佐為が逝ってしまっても、自分はこうして碁を打っている。
死んでしまった者がまだ生きている者の中では生き続けている、というのはこういう事かもしれ
ない。俺が生きている限り、俺が忘れない限り、俺の中に佐為はいて、例えば佐為に教えても
らった碁を誰かと打って、その誰かが自分と打った碁を覚えていたら、それは佐為を覚えてい
る事にはならないか。それは佐為がその人の中でも生きている事にはならないか。



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