黎明 8章
(53)
ゆっくりと、ヒカルの身体は快復していった。
ヒカルは剣の稽古を始め、落ちてしまった筋肉を取り戻そうと、鍛錬を始めた。
けれどそうしながらも、ヒカルは自分が完全に復調することを恐れていた。
そうしたらここを出て行かなければならない。
それが嫌だった。
それ程に、ここは居心地がよかった。
あれ以来、アキラは自分の心を語ることをしなかった。そしてヒカルに何かを問うことも、しなかっ
た。ただ、ヒカルの身体をいたわるように、吟味した滋養に溢れた食事を彼のために用意し、黙っ
て彼の快復を待った。
式を残して、宮中に出かけることもあったが、その時もヒカルへの温かい食事は忘れられる事な
く出された。
最近になってアキラが頻繁に留守にするのも本当はヒカルのためで、ヒカルを元の職に復帰させ
るために奔走しているのだということは、ヒカルにもわかっていた。
けれどヒカルはその気遣いに一抹の寂しさを感じていた。
何も問わず、責める言葉の一つもなく、ただ黙ってヒカルを受け入れてくれるアキラという存在か
ら、ヒカルは離れがたく感じていた。
彼がヒカルを見るときの穏やかな微笑みは、先に逝ってしまった人の春の日差しのような暖かい
微笑みとは全く違っていたけれど、けれどその微笑みを見ると、ヒカルは自分の心が不思議に落
ち着くような気がした。
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夜遅く帰宅したアキラに、寝ないで彼を待っていたヒカルは、訴えるように、こう言った。
「俺、ここを出て行きたくない。ここにずっといたい。ここに、ずっと、置かせてくれよ。」
ヒカルの言葉にアキラは驚きに目を見開き、ゆっくりと瞬きしてから、首を振った。
「駄目だよ。」
「おまえはいつもそう言う。」
アキラの否定の言葉に抗うようにヒカルは言う。聞き入れられない事など知っていたけれど。
「ここは君の仮宿にすぎない。君は在るべき所に在り、為すべきことを為さねばならない。
ここにいて君は何を為すことができるというのだ?」
わかっている。ここですべき事がある訳ではない。そうではなく、自分はただアキラと離れがたく
感じているだけなのに、どうしてそれをわかってくれないのだろう。そう思うと哀しくなった。
「一局、打たないか。」
静かに言う声に、ヒカルは弾かれたように顔を上げた。その様子に気付いているのかいないの
か、アキラはすっと立ち上がり、部屋の隅にあった碁盤を運んで彼の前に置いた。
碁石を持つのは本当に久しぶりだった。
もう一度碁を打つ自分がいる事など、考えもしなかった。佐為を思い出すものは全て自分から
遠ざけていたから。けれどこうしてアキラと打っていると、その横で楽しそうに対局を見ている
佐為がいるような気がして、ふとヒカルは顔をほころばせた。
そして、悲しみ以外の思いで佐為を思い出している自分がいることに気付いて、ヒカルは驚いた。
碁を教えてくれたのは佐為だった。
佐為が逝ってしまっても、自分はこうして碁を打っている。
死んでしまった者がまだ生きている者の中では生き続けている、というのはこういう事かもしれ
ない。俺が生きている限り、俺が忘れない限り、俺の中に佐為はいて、例えば佐為に教えても
らった碁を誰かと打って、その誰かが自分と打った碁を覚えていたら、それは佐為を覚えてい
る事にはならないか。それは佐為がその人の中でも生きている事にはならないか。
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佐為のあとを追うことは出来なかった。
それはなぜだろう。
置いていかれてしまった事がつらくて、佐為のいないこの世には何の意味も無いと思って、それ
でも、死んでしまいたいとは思わなかった。佐為のいないこの世など消えてしまえばいいと思っ
たのに、自分が消えてしまおうとは思わなかった。それななぜだろう。わからない。
そうして、死んではいなかったけれど生きてもいなかった自分は、今、確かに生き返って、こうして
碁を打っている。不思議だった。
こんな静かな気持ちで碁を打ち、佐為を思い出す日がくるとは、夢にも思わなかった。
小さく顔を上げて、碁盤の向こうの対局相手の姿を盗み見た。彼は自分の視線には気付かずに
真剣に碁盤を見つめている。
彼がいなかったら、こうして己を取り戻す事は出来なかったろう。
佐為を懐かしむ事など、出来なかったろう。
彼は何も言わない。
いつも静かに微笑んで、黙って自分を見る。
けれどその静けさの内に、どんなに激しい熱情が潜んでいるか、自分は知っている。冴えた月の
ように冷ややかに見えるその面の奥に、研ぎ澄まされた刃のような印象を与えるその姿の裏に、
どんなに熱い身体を持っているか、知っている。
彼がふと目を上げた。
視線が合って、彼は柔らかく微笑んだ。
その微笑みに、胸がキリキリと痛んだ。
そんなヒカルを見て彼は訝しげに小さく首を傾げ、けれど微笑んだまま視線を落として、また一つ、
石を置いた。
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そして最後の石が置かれる。
「終局だ。」
「うん。」
石を並べ替え整地し、目を数える。
「ちぇ。ちょっとだけ、足りなかったな。」
小さく唇を尖らせたヒカルに、アキラは穏やかな笑みを浮かべ、それから並べられた石を崩して
碁笥へと戻した。崩されていく盤上を見つめたまま、ヒカルはアキラの名を呼んだ。
「アキラ、」
どうした、と言うように目を上げて、アキラは黙ったまま微笑を返した。
「おまえの言う事はわかる。けど……けど、俺、おまえと離れたくない。」
そう言ってから顔を上げ、アキラの目を真っ直ぐに見つめた。
「そんな…事を、僕に言うなよ…」
微笑みを絶やさぬまま応えようと努めるアキラは、既に掠れて震える声に裏切られ、揺れる眼差し
と小さく震える睫毛を、今にも溢れ出しそうに湛えられた涙を、ヒカルも泣きそうな思いで見つめた。
自分の言葉の一体何がそこまでアキラを動揺させたかわからなくて、ヒカルはかけるべき言葉も
見つける事が出来ずに、ただ黙ってアキラを見つめていた。ヒカルにはアキラの言葉の意味する
ところも、なぜ彼の目に涙があふれるのかも、わからなかった。
わからないから、それ以上、何も言う事ができなかった。
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