落日 53 - 57
(53)
けれどそれでも私は先を促す。
「彼の警護役……?」
確たる証しは無いのですが、と彼は言う。当たり前だ。伝え聞いた噂話にそのようなものがあろう筈
がない。
だがそれが「彼」自身の事でなく、「彼」の警護役の事なのだと聞いて、私は途端に興味を失った。
そのようなつまらぬ噂話を、画策して自分から遠ざけようなどとしたのか。
彼に縁りの者がどこで何をしていようと、もはや自分には何の関わりもない。
ただ。
ふとその少年を思い出す。都人には珍しい明るい前髪の、明るい笑顔の少年であったように思う。
あのように目立つ容姿の者であれば、成る程、二つの禁忌に触れる事でも、人々の口の端にのぼり
口さがなく噂されてしまうものなのかも知れぬ。内裏でも何度か姿を見かけた少年の、その名は、何
と言ったろう。確かその名を聞いた時にはひどく合点がいったものだ。だが今、その名が何であった
かを思いだせぬ。
いや、思い出す必要もないだろう。
あの美しい囲碁指南役はもういない。
なれば、彼のかつての警護役が何だと言うのだ。
落ちぶれた家に落ちぶれた者が囲われているというのなら、それもまた似合いであろう。あの女が
見捨てられた子犬を拾っては慰み者にする事など、今に始まった事ではない。それが誰であれ、
自分が何か言い立てる必要などあるまい。
全てはなすがままに、流れのままに流れてゆくしかないのだ。
「よい。捨てておけ。」
そう言い捨てて、先に女御に取り立てた女の住まう宮へと足を運んだ。
(54)
歩きながら彼のことを思い出していた。
実際の所、自分は何も目にしなかったし、だから何の確証もない。
けれど、誰も目にしなくとも自ずと明らかになる真実というものもある。
彼を責めたて、詰り、貶めようと言葉汚く罵った者の醜い顔が蘇る。自らの内部に醜い蛇を飼う者
ほど、他人を悪し様に罵るものだ。罵り言葉など、全てその者の内にあるものでしかない。
どちらに不正があったかなど、言うまでも無い事と思ったが、だがその時自分の胸中にあったのは
別の事だった。不正がどちらにあったかなど、どうでもいい事だった。彼が不正などはたらく筈がな
い。彼を知るものなら誰もがそれを知るだろう。
己を不正を言い当てられそうになって殊更に言い立てる者を彼は非難するように見つめ、それから
何かを求めるように私を見た。その視線を受け止めた私は、けれど己の罪を他人に擦り付けんと汚
れた言葉を吐き連ねるものよりも、さらに醜い顔をしていたのかもしれない。
私を見た彼の美しい面に浮かんだものは、驚愕と、不信と、そして最後に私が見たのは絶望と諦め
の混じった、凄惨ともいえる薄い笑みだった。
どちらに正義があるかなど、どうでもいい。
助けてくれ、と言えばよい。
助けを求めれば助けてやろう。
その代わり――
私の差し出したものは彼の求めたものでなく、それゆえ最後まで彼はそれを拒み、その結果、「帝の
囲碁指南役」は失脚し、この世から消え去った。
その事を悔やみはしない。他の道があったとも思えぬから。
(55)
初めは拒まれているとは思わなかった。己を拒むような者がいるなど、思いもしなかった。
碁盤を挟んで彼と相対し、優美な白い指が自分の打った石に応えるとき、より正しい、美しい筋へ
と導こうとするのを感じる時、なぜか胸が高鳴るのを感じた。
それなのに、盤上ではあれほど優しく自分を導いてくれた彼は、一たび盤を片付けててしまうと、
こちらがどうとりなそうと、柔らかく微笑みながらも、きっぱりとそれらを拒絶した。どれ程高価な宝
物も、珍しい綾錦も、彼の心を動かすには足りなかった。
次第に苛立ちが混ざる。
それでも彼の姿を目にし、対局しながら彼の指導を受け、終局した後にはどこか硬く逸らされる彼
の眼差しを目にする時、正体もわからぬ何かが、胸の中で蠢く。そのざわめきが彼を引きとめよう
とし、だがそのざわめきが彼をまた遠ざける。己が彼を呼び、取り立てようとすればするほど、傍に
置こうとすればするほど、彼は自分を拒み、自分から遠ざかって行った。
それとも拒まれたからこそ自分は彼を望んだのだろうか。
わからぬ。
なぜなら生まれてからこのかた、自分を拒んだものなど彼を除いていないのだから。
(56)
藤原の娘を愛しく思っていたわけではない。愛しいという想いなど知らぬ。ただ、自分の一存のみ
であの囲碁指南役を退けたから、その事で傾いてしまった天秤を元に戻すために、彼女を女御に
取り立て、いずれ子を産めば中宮となるのだろう。
どこか彼に似た面差しのある、その女が傍らから見上げている。
「つい先程まで、新しい女房と碁を打っていたところでしたのよ。
中々の上手のもので、よろしければ主上も一局いかが?」
「いや、碁はよい。」
「あら……確かにわたくしでは主上の相手は務まりませんけれど、あの者でしたら…」
「いや、よい。碁はもう、飽きた。」
「まあ。」
と、彼女は嘆息する。
「以前はあんなに夢中であられましたのに。」
そんな女御の言葉を他人事のように聞き流す。
彼でなければつまらぬ。
いや、碁に夢中だったのではない。彼に、夢中だっただけだ。
美しく優美な青年。白い指先から繰り出される一手。高らかな音をたてて打ち据えられる白と黒の
石。彼との対局は会話だった。自分の置いた石に彼が応え、その石にまた自分が応える。そうして
十九路の小さな都の上に築き上げられる世界。相手が彼であってこそ、その遊びに夢中になった。
その彼なくして、碁など、何が面白いだろう。
きっともう碁を打つ事は無いだろう。そんな気がする。
自分が碁を打たなくなって、残されたあの囲碁指南役はどうするだろう。
どうもしまい。彼は碁を打つ事よりも「帝の囲碁指南役」という名の方が大事なのだから。今更それ
を取り下げる気も無いから、あの者もそれで満足だろう。自分が碁なぞ打たずとも、内裏の中には
何の支障も無い。所詮はただの遊びだ。
(57)
この都において、自分こそが中心たる太陽であることを知っている。
己の望みとは何の関わりもなく、内裏において、都において、この国において、自分こそが天を統
べる日で在った。望む前に全てを与えられ、この世にあるもの全ては己のために在った。それが
天子であり帝たる自分のさだめであり、またつとめでもあった。
何かを望むまでもなく全てを手中にしていた己が初めて望んだ人はけれど己を拒み、それ故に
ここから消えていった。ここに在るものは全て帝たる自分のためのものだから、その自分を拒む
ものはここに在る事はできない。彼はそれを知っていたから、自らここから消えていった。
全てを与えられると言う事はけれど全てを担うと言う事でもあり、だがそれを嘆いてもどうにもな
るまい。自分はそう生まれついてしまったのだから。
帝の子として生れつき、全ての中心たる日輪たることを約束され、また要求され、そして今、その
ようにしてここに在る。それ以外の在りようを自分は知らない。
けれど、日はまた没するものだ。
「何を笑っておられますの?」
女の声で、現世に引き戻される。
笑っていたのか?自分は。いつか己が没する時の事を思って?
それもよい。
己が没してもまた次の陽が昇り、都は変わらずに日々の営みを続けるのだろう。
ひとも、ときも、皆、儚い。
今日の日も、また、沈み行く前に最期の力を振り絞って鮮やかな夕映えを見せている。あれは
己が没する前の最期の輝きだ。
沈みきっても尚、己を忘れてくれるなと言いたげに残照は薄紅く都を染め上げている。けれど
それもやがては力尽き、都は黄昏の中に沈んでいき、そして日の力が完全に没した時、都は
闇に包まれる。
月のないこの夜、ただ星だけがほんの小さな煌きをもって闇を恐れる者どもを救うのだろう。
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