黎明 53 - 60


(53)
ゆっくりと、ヒカルの身体は快復していった。
ヒカルは剣の稽古を始め、落ちてしまった筋肉を取り戻そうと、鍛錬を始めた。
けれどそうしながらも、ヒカルは自分が完全に復調することを恐れていた。
そうしたらここを出て行かなければならない。
それが嫌だった。
それ程に、ここは居心地がよかった。

あれ以来、アキラは自分の心を語ることをしなかった。そしてヒカルに何かを問うことも、しなかっ
た。ただ、ヒカルの身体をいたわるように、吟味した滋養に溢れた食事を彼のために用意し、黙っ
て彼の快復を待った。
式を残して、宮中に出かけることもあったが、その時もヒカルへの温かい食事は忘れられる事な
く出された。
最近になってアキラが頻繁に留守にするのも本当はヒカルのためで、ヒカルを元の職に復帰させ
るために奔走しているのだということは、ヒカルにもわかっていた。
けれどヒカルはその気遣いに一抹の寂しさを感じていた。
何も問わず、責める言葉の一つもなく、ただ黙ってヒカルを受け入れてくれるアキラという存在か
ら、ヒカルは離れがたく感じていた。
彼がヒカルを見るときの穏やかな微笑みは、先に逝ってしまった人の春の日差しのような暖かい
微笑みとは全く違っていたけれど、けれどその微笑みを見ると、ヒカルは自分の心が不思議に落
ち着くような気がした。


(54)
夜遅く帰宅したアキラに、寝ないで彼を待っていたヒカルは、訴えるように、こう言った。
「俺、ここを出て行きたくない。ここにずっといたい。ここに、ずっと、置かせてくれよ。」
ヒカルの言葉にアキラは驚きに目を見開き、ゆっくりと瞬きしてから、首を振った。
「駄目だよ。」
「おまえはいつもそう言う。」
アキラの否定の言葉に抗うようにヒカルは言う。聞き入れられない事など知っていたけれど。
「ここは君の仮宿にすぎない。君は在るべき所に在り、為すべきことを為さねばならない。
ここにいて君は何を為すことができるというのだ?」
わかっている。ここですべき事がある訳ではない。そうではなく、自分はただアキラと離れがたく
感じているだけなのに、どうしてそれをわかってくれないのだろう。そう思うと哀しくなった。
「一局、打たないか。」
静かに言う声に、ヒカルは弾かれたように顔を上げた。その様子に気付いているのかいないの
か、アキラはすっと立ち上がり、部屋の隅にあった碁盤を運んで彼の前に置いた。

碁石を持つのは本当に久しぶりだった。
もう一度碁を打つ自分がいる事など、考えもしなかった。佐為を思い出すものは全て自分から
遠ざけていたから。けれどこうしてアキラと打っていると、その横で楽しそうに対局を見ている
佐為がいるような気がして、ふとヒカルは顔をほころばせた。
そして、悲しみ以外の思いで佐為を思い出している自分がいることに気付いて、ヒカルは驚いた。

碁を教えてくれたのは佐為だった。
佐為が逝ってしまっても、自分はこうして碁を打っている。
死んでしまった者がまだ生きている者の中では生き続けている、というのはこういう事かもしれ
ない。俺が生きている限り、俺が忘れない限り、俺の中に佐為はいて、例えば佐為に教えても
らった碁を誰かと打って、その誰かが自分と打った碁を覚えていたら、それは佐為を覚えてい
る事にはならないか。それは佐為がその人の中でも生きている事にはならないか。


(55)
佐為のあとを追うことは出来なかった。
それはなぜだろう。
置いていかれてしまった事がつらくて、佐為のいないこの世には何の意味も無いと思って、それ
でも、死んでしまいたいとは思わなかった。佐為のいないこの世など消えてしまえばいいと思っ
たのに、自分が消えてしまおうとは思わなかった。それななぜだろう。わからない。
そうして、死んではいなかったけれど生きてもいなかった自分は、今、確かに生き返って、こうして
碁を打っている。不思議だった。
こんな静かな気持ちで碁を打ち、佐為を思い出す日がくるとは、夢にも思わなかった。

小さく顔を上げて、碁盤の向こうの対局相手の姿を盗み見た。彼は自分の視線には気付かずに
真剣に碁盤を見つめている。
彼がいなかったら、こうして己を取り戻す事は出来なかったろう。
佐為を懐かしむ事など、出来なかったろう。
彼は何も言わない。
いつも静かに微笑んで、黙って自分を見る。
けれどその静けさの内に、どんなに激しい熱情が潜んでいるか、自分は知っている。冴えた月の
ように冷ややかに見えるその面の奥に、研ぎ澄まされた刃のような印象を与えるその姿の裏に、
どんなに熱い身体を持っているか、知っている。

彼がふと目を上げた。
視線が合って、彼は柔らかく微笑んだ。
その微笑みに、胸がキリキリと痛んだ。
そんなヒカルを見て彼は訝しげに小さく首を傾げ、けれど微笑んだまま視線を落として、また一つ、
石を置いた。


(56)
そして最後の石が置かれる。
「終局だ。」
「うん。」
石を並べ替え整地し、目を数える。
「ちぇ。ちょっとだけ、足りなかったな。」
小さく唇を尖らせたヒカルに、アキラは穏やかな笑みを浮かべ、それから並べられた石を崩して
碁笥へと戻した。崩されていく盤上を見つめたまま、ヒカルはアキラの名を呼んだ。
「アキラ、」
どうした、と言うように目を上げて、アキラは黙ったまま微笑を返した。
「おまえの言う事はわかる。けど……けど、俺、おまえと離れたくない。」
そう言ってから顔を上げ、アキラの目を真っ直ぐに見つめた。
「そんな…事を、僕に言うなよ…」
微笑みを絶やさぬまま応えようと努めるアキラは、既に掠れて震える声に裏切られ、揺れる眼差し
と小さく震える睫毛を、今にも溢れ出しそうに湛えられた涙を、ヒカルも泣きそうな思いで見つめた。
自分の言葉の一体何がそこまでアキラを動揺させたかわからなくて、ヒカルはかけるべき言葉も
見つける事が出来ずに、ただ黙ってアキラを見つめていた。ヒカルにはアキラの言葉の意味する
ところも、なぜ彼の目に涙があふれるのかも、わからなかった。
わからないから、それ以上、何も言う事ができなかった。


(57)
「君の出仕が決まったよ。明日の朝だ。」
ある日の夕べ、アキラが穏やかな声で、ヒカルにこう告げた。
「だから、ここでこうやって君と夕餉をとるのも、今日が最後だ。」
ヒカルの手が止まった。
予感はしていた。それが今日であるか、明日であるか、明後日であるか、どちらにしても残された
時間はそれくらいしかないという事を、ヒカルは既に知っていた。
「そうか。」
だから、そっけない返事を返しただけで、再び箸を動かした。
言葉もなく、二人は味気ない食事を口に運んだ。食べ終わると、どこからともなく現れた童が、残
さず綺麗に片付けられた膳を二つ、運んで去っていった。

アキラはすいと立ち上がり、御簾を開け、縁側に立って東の空に昇る月を見た。
ヒカルもその隣に並び、同じように空を見上げた。
「今宵の月は十四日の月。明日は満月だ。」
そしてヒカルを振り返り、満足そうな笑みを浮かべて、こう言った。
「君の復帰の日に相応しい。」
月の満ち欠けだけでなく、ヒカルには計り知れない様々な要因を含めて、アキラがこの日を定めた
のだと言う事が、ヒカルにもわかった。と言う事は、今日が最後である事は、もう随分前から彼の
内では定められていた事なのか。アキラが既にそれを決めておきながら、先刻までそれをヒカル
に告げなかった事を、彼にも理由があってのことであろうとは推測できたが、それでも事前に告げ
られなかった事を、ヒカルは少しだけ、恨んだ。言ってくれなかった事が悲しかった。覚悟はして
いたとはいえ、それでも突然やってきた別れが、悲しかった。
そんな想いを抱えながら、横に並ぶアキラの顔を見た。
アキラがヒカルに気付いて、微笑んだ。その穏やかな微笑が、なんだかとても悲しくて、ヒカルは
笑みを返せなかった。


(58)
横に並んだヒカルはいつの間にかアキラと変わらぬほどに背が伸びていた。
その痩躯には鍛えられたしなやかな筋肉がはりつき、少年の身体はいつしか青年の身体に変
わりつつあって、そこには以前のような柔らかな肉付きも、そして闇の底にあった時の儚げな
頼りなさも、今はもう僅かにその面影を残すのみで、やがてはすっかり消えてしまうのだろう。
アキラは、ヒカルが取り戻し、そして更に前以上に成長したその身体を称えながらも、心の片隅
で、失われゆく儚い少女のような細い身体を、ひっそりと惜しんだ。
アキラのその視線に気付いているのかいないのか、ヒカルはふとそこをはなれ、屋内へと戻り、
すたすたと歩いてゆくと、かつて彼が囚われていた奥部屋の中央に腰を下ろした。アキラは戸惑
いながら彼の後を歩き、座り込んだ彼を見下ろした。
「明日は早い。寝所の用意をさせよう。」
ヒカルから目をそらし、廊下に控える童に目配せしようとしたアキラを、ヒカルが押し止めた。
アキラの腕を掴んで、顔を見上げて、ヒカルは言った。
「最後に、一つだけ、おまえに願いたいものがあるんだ。」
ヒカルの真剣な表情に、そして、彼の願いというものが何であるか見当がつかずに、アキラは戸
惑ったような目で、ヒカルを見下ろした。
「俺は、一つだけ、欲しいものがあるんだ。ここを出て行く前に、最後に、一つだけ。」
ヒカルの物言いに、アキラの目がヒカルの視線を避けるように泳いだ。
「俺は覚えてる。寒さに震えていた俺を、おまえが抱きしめてくれたことを。暖めてくれた事を。
俺を救ってくれたのはおまえだ。おまえの熱だ。だから…」
ヒカルの言葉に、アキラは怯えた。
「けれどおまえは一度として、一番熱いおまえ自身を俺にはくれなかった。
俺はそれが欲しいんだ。」


(59)
「嫌だ。」
アキラは反射的に答えていた。だが最初の返事が拒否であろう事は、ヒカルも覚悟していた。
「なぜ。なぜ、今更、そんな話をする。」
困惑と怒りに震えながら、アキラはヒカルに問い、掴まれた腕を振りほどこうともがく。
けれどその手をしっかりと握ったまま、ヒカルはアキラに請い願った。
「おまえが俺におまえをくれないのは、おまえの中にいる誰かのためか?
おまえが想う誰かのためか?」
「違う。」
アキラは頭を振って、彼の問いを否定する。
「それは違う。僕じゃない。君が僕を見ていないからだ。」
「そんな事、ない。俺はちゃんとおまえを見てる。おまえが好きだ。好きだからおまえが欲しいと思う。」
「佐為殿よりも?」
冷たく切りつける刀のように、その人の名前がヒカルに突きつけられ、アキラの眼光がヒカルを射た。
けれど、その光に、ヒカルはもはや怯みはしなかった。
「違う。」
今度はヒカルが、きっぱりと答えた。
「誰も、佐為の代わりになんかなれない。比べる事なんかできない。
ただ、佐為の代わりにじゃなく、ただおまえが、おまえとして、欲しいんだ。」
ヒカルはアキラの両の手を握り締めてかき口説いた。
「一度でいい。おまえを俺にくれよ。
それとも、そんなにその誰かが好きなのか?
おまえは、おまえの熱は全部その誰かのもので、俺には欠片も分けてはもらえないのか?」
「そんな…事を、僕に問わないでくれ。それが誰かなんて、君は……」
「言わなくて、いい。聞きたくない。おまえが誰を想ってるかなんて。」
俺以外の人の名を、今、おまえの口から聞きたくない。そう思ってアキラの言葉を遮った。
「ただ、今だけ、俺のそばにいてくれる今だけ、一度でいいから俺を見てくれよ。
一度でいいんだ。
おまえが欲しいんだ。おまえの全部が。
それでもう俺を忘れてくれていいから…そうしてくれたら、俺はもういいから。
おまえはその、誰かの元に、もう、戻っていいから…」


(60)
なぜだ。
なぜわからないんだ。
そこまで僕を欲しいというのなら、それなら、なぜ気付かないんだ。
その誰かが君だという事に、いつだって僕が見ているのは君しかいないという事に、僕が欲しい
のは、僕が誰よりも想うのは君なのだという事に、なぜ君は気付かないんだ。
けれど僕は知っている。なぜ君がそれに気付かないのか。
佐為殿以外の誰かが君を愛する事など、それこそ君はそんな事は万に一つもないと、信じて疑
いもしない。そうして君は彼以外のひとが君を愛する事を許さない。そうやって君は僕の想いを
否定しているんだ。
僕は知っている。逝ってしまっても、それでも尚、君の心を一番に捉えているのは佐為殿だとい
うことを、君の中の特別の位置は彼に占められていて、他の誰の入る隙も無いという事を、僕は
誰よりも強く思い知らされている。彼の為に闇の底にさえ堕ちて行った君を、僕は知っている。

君は、君の心は一欠片も僕にはくれないくせに、僕を欲しいなんて、言うな。たった一度だけ僕の
熱が欲しいのだと君が言うのならば、僕は君の全てを永遠に欲しいと思う。そんな僕の想いには
君は決して応えはしないくせに、僕の望むものを欠片もくれはしないくせに、それなのに僕を欲し
いなんて、言うな。
一度でいいなんて、言うな。
一度きりじゃ嫌だから、たった一度でも抱き合ってしまったら君の全部が欲しくなってしまうから、
けれどそれはかなわぬ望みだと知っているから。
一度でも抱き合ってしまったら、忘れられなくなる。
だから、だから一度でいいなんて言わないでくれ。君に必要な僕はたった一度で充分だなんて、
それだけしか欲しくないなんて、僕に思い知らせないでくれ。
忘れてくれなんて、言うな。忘れられるはずがないじゃないか。今でさえ、僕は君を忘れるなんて
できない。行き場のない想いを抱えたまま、その想いを忘れることも捨てることも出来ない。
僕が戻るんじゃない。君が出て行くんだ。そうして僕は一人取り残される。
思い出すだけの思い出なら最初から欲しくない。そう思ったからこそ。



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