無題 第2部 54


(54)
男の酒臭い息の匂いがアキラに届いてアキラはぞっとした。
ここから逃げ出してしまいたい。だが足を動かす事ができなかった。
駅に着いて、人が降りるのを避けようと、アキラはほんの少しだけ移動した。
そのスキをついて、男の手がアキラの尻を軽く撫でてからアキラの横を通り過ぎた。
全身が総毛だった。
アキラのその反応を楽しむように、男は降り際に振り返って、アキラを見て嗤った。
恐怖と怒りと屈辱に身体を震わせるアキラをよそに、地下鉄の扉が閉まった。
「畜生…!」
今までもそういった視線にあったことがないではない。
しかし、超然としたアキラの視線にあって、大抵の場合は相手の方が怯んで、目をそらした。
だが、さっきは自分の方が彼の視線に怯えた。その事が第一の屈辱だった。
なぜ、と問うまでも無い。
自分が変わってしまったからだ。変えられてしまったからだ。
力で征服された事を、その恐怖と屈辱を、乗り越えたと思っていた。
だがそれはとんでもない思い上がりだったのだと気付かされた。
忘れてはいない。忘れられるはずが無い。
瞬間、あの時の記憶がフラッシュバックする。
背後からかかる熱く荒い息。全身を弄り玩ぶ指や舌の感触。身体を引き裂く痛み。
そして自らの抵抗の意志を無視して、絶頂へ向けて駆け登っていった身体の感覚が蘇る。
何より許し難い肉体のその裏切り。
目の前が暗くなる。貧血だ、とアキラは思った。
倒れそうになるのを、必死に手すりに掴まって耐えた。
目的の駅は、まだ遠い。地下を走る轟音が耳の遠くで聞こえていた。



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