裏階段 アキラ編 55 - 56
(55)
アキラが心から父親を尊敬し同じ道を進もうとしている気持ちに迷いは今のところは
ないだろうが、確かにライバル不在でどこまで日常的に向上心を保てるか。
大人でも難しい事だ。
アキラはまだプロではない。だが明らかにアマチュアの範疇でもない。
そしてその事を彼自身がよく知っている。
「思いきって、アキラくんにプロ試験に挑戦する事を勧めたらどうです?」
「…うむ…。」
先生が迷うのも分かる。“他にどうしようもないからプロ試験を受ける”という安易な選択を
アキラにさせたくないのだろう。
もうひとつにはあまりにも早い年令でその中に埋没してしまうと、今はいいが、
長い人生において後々何らかの機会に弊害が出て来るかもしれない。
それは父親としての正直な心情と言える。
「時間が欲しいのはどうやら私の方のようだ。…緒方君、もう少しあの子の我が儘に
つき合ってやって欲しい。あの子が今の状況の中で自分の居場所を見つけるまで。」
「アキラくんは賢い子です。ライバルが居ないなりに自分で答えを出せるでしょう。
そんなに時間はかからないと思います。」
しばらく間があり、対局の再開がなされた。
一人の父親の顔からプロ棋士の顔へと変化する。
瞬時のうちに、毎日のようにここで先生と打ち合った日々に引き戻る。
地獄の底から救い上げられたこの場所は昔も今もやはりオレにとっては
悲しいほどに眩し過ぎる。そしてそれはおそらく一生変わらない。
(56)
頭の中で光が弾ける。目眩がして、周囲で歪んだ映像がゆっくりと輪郭を取り戻して行く。
体の下で同じようにアキラの肢体が痙攣し汗ばみ、ルームライトの光を反射させている。
手を伸ばし、黒髪をそっと撫でるとピクリと小さく白い肩が震えた。
下肢を重ねたまま彼の背中に覆い被さり、黒髪に口づける。
唇で髪をかき分けて首の後ろに辿り着く。
彼の髪の匂いは幼い時とあまり変わらない。ほのかに甘い。
特定の洗髪剤や整髪剤を使っている訳ではないだろうが、いつも同じ香りがする。
同じ雄で在りながら雄のある種の衝動を掻き立てる香りだった。
かすかにアキラの頭が動いた。顔をこちらに向けようとしているのだ。
その両肩を押さえて、首の後ろから背骨の始まりの部分に唇を這わすと
収まりかかっていた彼の吐息が再び荒く乱れ始めた。
余震は彼の体内の奥深くで今なお長く続いていた。
言葉は交わさなくても、目を見ないでも
一度だけでは互いに欲しいものを得られない事を了解し合っていた。
先生からオレの部屋を訪れる事を黙認されるようになって、逆に以前ほどはアキラは
そう何度もやって来る事はなくなった。
やはり意地になっていた部分があったのだろう。
そのかわりこちらも出来うる限り碁会所でアキラと会うようにし、碁の相手を
するよう努めた。
その代わり、部屋に時々やって来るアキラは、それまでよりも濃密な時間の過ごし方を
求めるようになった。
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