黎明 55 - 57
(55)
佐為のあとを追うことは出来なかった。
それはなぜだろう。
置いていかれてしまった事がつらくて、佐為のいないこの世には何の意味も無いと思って、それ
でも、死んでしまいたいとは思わなかった。佐為のいないこの世など消えてしまえばいいと思っ
たのに、自分が消えてしまおうとは思わなかった。それななぜだろう。わからない。
そうして、死んではいなかったけれど生きてもいなかった自分は、今、確かに生き返って、こうして
碁を打っている。不思議だった。
こんな静かな気持ちで碁を打ち、佐為を思い出す日がくるとは、夢にも思わなかった。
小さく顔を上げて、碁盤の向こうの対局相手の姿を盗み見た。彼は自分の視線には気付かずに
真剣に碁盤を見つめている。
彼がいなかったら、こうして己を取り戻す事は出来なかったろう。
佐為を懐かしむ事など、出来なかったろう。
彼は何も言わない。
いつも静かに微笑んで、黙って自分を見る。
けれどその静けさの内に、どんなに激しい熱情が潜んでいるか、自分は知っている。冴えた月の
ように冷ややかに見えるその面の奥に、研ぎ澄まされた刃のような印象を与えるその姿の裏に、
どんなに熱い身体を持っているか、知っている。
彼がふと目を上げた。
視線が合って、彼は柔らかく微笑んだ。
その微笑みに、胸がキリキリと痛んだ。
そんなヒカルを見て彼は訝しげに小さく首を傾げ、けれど微笑んだまま視線を落として、また一つ、
石を置いた。
(56)
そして最後の石が置かれる。
「終局だ。」
「うん。」
石を並べ替え整地し、目を数える。
「ちぇ。ちょっとだけ、足りなかったな。」
小さく唇を尖らせたヒカルに、アキラは穏やかな笑みを浮かべ、それから並べられた石を崩して
碁笥へと戻した。崩されていく盤上を見つめたまま、ヒカルはアキラの名を呼んだ。
「アキラ、」
どうした、と言うように目を上げて、アキラは黙ったまま微笑を返した。
「おまえの言う事はわかる。けど……けど、俺、おまえと離れたくない。」
そう言ってから顔を上げ、アキラの目を真っ直ぐに見つめた。
「そんな…事を、僕に言うなよ…」
微笑みを絶やさぬまま応えようと努めるアキラは、既に掠れて震える声に裏切られ、揺れる眼差し
と小さく震える睫毛を、今にも溢れ出しそうに湛えられた涙を、ヒカルも泣きそうな思いで見つめた。
自分の言葉の一体何がそこまでアキラを動揺させたかわからなくて、ヒカルはかけるべき言葉も
見つける事が出来ずに、ただ黙ってアキラを見つめていた。ヒカルにはアキラの言葉の意味する
ところも、なぜ彼の目に涙があふれるのかも、わからなかった。
わからないから、それ以上、何も言う事ができなかった。
(57)
「君の出仕が決まったよ。明日の朝だ。」
ある日の夕べ、アキラが穏やかな声で、ヒカルにこう告げた。
「だから、ここでこうやって君と夕餉をとるのも、今日が最後だ。」
ヒカルの手が止まった。
予感はしていた。それが今日であるか、明日であるか、明後日であるか、どちらにしても残された
時間はそれくらいしかないという事を、ヒカルは既に知っていた。
「そうか。」
だから、そっけない返事を返しただけで、再び箸を動かした。
言葉もなく、二人は味気ない食事を口に運んだ。食べ終わると、どこからともなく現れた童が、残
さず綺麗に片付けられた膳を二つ、運んで去っていった。
アキラはすいと立ち上がり、御簾を開け、縁側に立って東の空に昇る月を見た。
ヒカルもその隣に並び、同じように空を見上げた。
「今宵の月は十四日の月。明日は満月だ。」
そしてヒカルを振り返り、満足そうな笑みを浮かべて、こう言った。
「君の復帰の日に相応しい。」
月の満ち欠けだけでなく、ヒカルには計り知れない様々な要因を含めて、アキラがこの日を定めた
のだと言う事が、ヒカルにもわかった。と言う事は、今日が最後である事は、もう随分前から彼の
内では定められていた事なのか。アキラが既にそれを決めておきながら、先刻までそれをヒカル
に告げなかった事を、彼にも理由があってのことであろうとは推測できたが、それでも事前に告げ
られなかった事を、ヒカルは少しだけ、恨んだ。言ってくれなかった事が悲しかった。覚悟はして
いたとはいえ、それでも突然やってきた別れが、悲しかった。
そんな想いを抱えながら、横に並ぶアキラの顔を見た。
アキラがヒカルに気付いて、微笑んだ。その穏やかな微笑が、なんだかとても悲しくて、ヒカルは
笑みを返せなかった。
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