誘惑 第三部 55 - 58
(55)
「……わかった。今日はアキラの奢りだ。思いっきり呑んでやる。」
「えっ?」
慌てたアキラに、
「そうだな。」
緒方が冷静に応えた。
「じゃ、次は何頼もうかな。ちまちま頼むのも面倒だからボトルで行くか。どうせアキラの奢りだしな。」
芦原は浮かれたように鼻歌を歌いながらメニューを眺める。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、本気なんですか?」
「当たり前だろ。ねぇ、緒方さん。」
「当然だ。ホラ、芦原、何でも好きなの頼んでいいぞ。」
「そんな、ひどい、ボクが一番年下なのに…二人とも大人のくせに、子供にたかる気ですか?」
「うるさい、こんな時だけ子供ぶるんじゃない。」
「そうそう、一番シアワセなヤツが奢るもんだ。それが世の習いってもんだよ、アキラくん。」
「んじゃ、アキラと進藤君の前途を祝して、それからオレ達にも幸せな明日が来るように、
景気よくドンペリでも頼むか。」
「何言ってんですか、あるわけないでしょ、こんな居酒屋に。
もうっ!緒方さんも、笑ってないで何とかしてくださいよ!」
(56)
「…ってね、芦原さんにばらしちゃった。」
電話の向こうの、アルコールのために饒舌になっているアキラの笑い声を聞きながら、ヒカルは
呆れたように言った。
「おまえら……ひでぇ…。芦原さん、可哀想じゃん、なんか…」
「まあ、芦原さんも信じてなかったみたいだけどね。」
「そりゃあそうだろう。」
「だからさ、今度キミも一緒に飲みに行かない?見せ付けてあげようよ。芦原さんに。」
「おまえ、いい加減にしろよなぁ。大体、未成年だろ、おまえ。」
「ああ、そっか、キミ、酒はあんまり強くないんだっけ。」
「だからまだ未成年なんだから、当然だろ。」
「ハハ、潰れたらボクが介抱してあげるから。」
「やだ。」
ヒカルは即座に断った。
「やだ。おまえが介抱するってなんかヤな気がする。何されるかわかんねぇじゃねぇか。」
「何されるかって、ボクが何するって言うのさ?何期待してるの?」
「期待なんかしねぇよ!バカ!!」
「しないよ。酔っ払って潰れてるヤツ相手にやったってつまんないじゃないか。」
つまるとかつまんねぇとかじゃねぇだろ。
やっぱ、オレはこいつに遊ばれてるのか?
ああ、畜生。どーせオレはガキだよ。カワイイよ。
いいさ。好きなだけオレをからかって、ユーワクして、遊べばいい。
「それより進藤、明日は?何時頃来れる?」
「あ、うん、いや、行ってもいいんだけど、えーと、たまにはウチに来ない?」
「え?」
「お母さんがさあ、なんか、いっつも塔矢くんちに遊びに行ってばっかじゃなくって、たまにはウチに
来てもらいなさい、って。」
「え?え…と、もしかして、あの…やっぱり快く思われてらっしゃらないんだろうか…」
「あ、ううん、それはないと思う。お母さんも塔矢くんに会いたいわあ、なーんて言ってたし、」
「え、ええっ?」
「なーに照れてるんだよ、バカ。で、どう?だいじょぶ?」
「勿論。それじゃ…」
(57)
アキラの持ってきたケーキの箱を受け取って、ヒカルは、ホント、おまえって律儀だよな、とヒカルは
からかうように言った。
「お母さん、今、買い物出てるんだ。じき帰ってくると思うけど。
飲むもん持ってくから、オレの部屋に上がってて。」
「うん、それじゃ。」
促されて、アキラは一人、2階のヒカルの部屋へ向かった。
以前にはよく訪れていたこの部屋に来るのは久しぶりかもしれない。そう思って部屋を見回していた
アキラの目が、部屋の隅に置かれた碁盤の上で止まった。
そしてちらっと後ろを振り返ってからゆっくり近づいて屈みこみ、碁盤にそっと触れた。
いつだったか、「この碁盤は特別なんだ」と、そう言っていた。「だから今は打てない」と。
多分それは「いつか話すかもしれない」事と繋がっているのだろうと思う。
その事については自分からは聞かない事に決めた。だからこの碁盤の事についても何も聞かない。
アキラは、この碁盤の前に座るヒカルを思い浮かべながら、表面をそうっと撫でた。
大切なものを慈しむように。
ヒカルはいつからこの碁盤で打ち始めて、これにはどんな思い出があるのだろう。きっと自分が
ヒカルといるよりもずっと長く、この碁盤はヒカルと共にあったのだ。そう思うと、とても大切に扱わ
れている事がわかるこの碁盤が、羨ましいような気がした。
そう言えば、もう随分、進藤とは対局していないな、とアキラは突然気付いた。
(58)
打ちたい。
突然湧いてきたその気持ちは、気付いてしまったら抑えがたかった。
進藤と打ちたい。
どうして今まで打たないでいられたんだろう。
離れていた時を補うように抱き合う事に夢中で、碁は放っておかれたままだった。
でも、思い出してしまった。打ちたい。いっときだって我慢できない。いますぐに、ここで。
でも、この碁盤は。
突然、背後で物音がして、アキラは驚いて中腰で振り返った。
「わわっ!」
ペットボトルとコップを持ったヒカルが慌てて仰け反った。
「何だよ!いきなり!」
「…ごめん。急に後ろにいたから…」
「声、かけたぜ?」
「え、そ、そう?」
なぜだかしどろもどろになってるアキラに向かって、ヒカルはにこっと笑った。
「ウーロン茶でイイ?」
「う、うん。」
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