落日 56
(56)
藤原の娘を愛しく思っていたわけではない。愛しいという想いなど知らぬ。ただ、自分の一存のみ
であの囲碁指南役を退けたから、その事で傾いてしまった天秤を元に戻すために、彼女を女御に
取り立て、いずれ子を産めば中宮となるのだろう。
どこか彼に似た面差しのある、その女が傍らから見上げている。
「つい先程まで、新しい女房と碁を打っていたところでしたのよ。
中々の上手のもので、よろしければ主上も一局いかが?」
「いや、碁はよい。」
「あら……確かにわたくしでは主上の相手は務まりませんけれど、あの者でしたら…」
「いや、よい。碁はもう、飽きた。」
「まあ。」
と、彼女は嘆息する。
「以前はあんなに夢中であられましたのに。」
そんな女御の言葉を他人事のように聞き流す。
彼でなければつまらぬ。
いや、碁に夢中だったのではない。彼に、夢中だっただけだ。
美しく優美な青年。白い指先から繰り出される一手。高らかな音をたてて打ち据えられる白と黒の
石。彼との対局は会話だった。自分の置いた石に彼が応え、その石にまた自分が応える。そうして
十九路の小さな都の上に築き上げられる世界。相手が彼であってこそ、その遊びに夢中になった。
その彼なくして、碁など、何が面白いだろう。
きっともう碁を打つ事は無いだろう。そんな気がする。
自分が碁を打たなくなって、残されたあの囲碁指南役はどうするだろう。
どうもしまい。彼は碁を打つ事よりも「帝の囲碁指南役」という名の方が大事なのだから。今更それ
を取り下げる気も無いから、あの者もそれで満足だろう。自分が碁なぞ打たずとも、内裏の中には
何の支障も無い。所詮はただの遊びだ。
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