無題 第2部 56 - 60
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―なんで、なんで逃げ出したんだ?塔矢だって、変に思うに違いない。
戻らなきゃ。戻って、普通に笑わなくちゃ。
非常階段の手すりに顔を伏せて、ヒカルは肩で荒く息をした。
心臓がドキドキいって止まらない。
顔が火照って熱い。
進藤、と、アキラが呼んだ声が頭の中でこだまする。
―どうして?どうして目を逸らした?どうして逃げた?
アイツの顔が、オレを見た時のあの顔が、あんまり眩しかったから。
そして、瞬時にアキラの顔が脳裏に蘇った。
ヒカルを認めた時の嬉しそうな笑顔。
それから、子供と話していた時の優しそうな横顔。
ずっと昔、自分を追ってきた時の真剣な眼差し。対局中のきびしい表情。
そして、この間の朝の、美しい寝顔。
朝の光に映える横顔。ヒカルの触れた手に真っ赤になっていたアキラ。
―どうしよう…どうしよう、オレ…
ヒカルの胸の高鳴りは収まらなかった。
―どうしよう…オレ、オレ…塔矢が好きだ……!
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その笑顔の眩しさに戸惑ったのはヒカル一人ではなかった。
彼はその眩しさに目を細めた。だがそれは自分に向けられたものではない。
そしてヒカルに逃げられたアキラは、あからさまににがっかりした様子を隠さなかった。
―フン、これが嫉妬ってヤツか…?
胸の奥に広がる苦さを彼はそう解釈しながら、アキラに近づいて声をかけた。
「やあ」
アキラは、一瞬戸惑った様子で彼を見上げ、だがすぐにそれを押し隠して応えた。
「お久しぶりですね、緒方先生。
今日、こちらにお見えになるとは聞いていませんでしたが…」
それは、先程の表情などかけらも感じさせない、礼儀正しく同門の先輩に挨拶するプロ棋士・
塔矢アキラの顔だった。あるいは無表情と言ってもいい程だ。
「緒方先生」という呼び方が緒方は気になった。
今でこそタイトルホルダーとなり、大抵の若手は「先生」と彼を呼ぶが、アキラは幼時からの
つきあいもあって、いつも彼を「緒方さん」と呼んだ。
「緒方さん」と呼ばれるよりも「緒方先生」と呼ばれるのは一層のよそよそしさを感じて、緒方は
苛ついた。
その苛つきを抑えないままアキラを見下ろすと、彼は冷ややかな視線を返してきた。
その視線は益々緒方を苛立たせた。
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帰り道、愛車のハンドルを握りながら、緒方は今朝の自分を見た時のアキラの冷ややかな
視線を思い出していた。
アキラの目は正直だ。
一見ポーカーフェイスを装いながら、自分を見る視線にこめれられたものは。
苛立ち?憎悪?オレは彼に憎まれるような事をした覚えは……あるな。
無いとはとても言えん。
ではオレの部屋にいる時のアイツは何だ?
何の為にオレの部屋にやって来る?
それは今までにも何度か感じた疑問だった。
コイツはオレの事を一体どう思っているんだ、ただの性欲処理の為の道具か、と。
その可能性も否めない、とは思う。
あの年頃の男だったら、心など関係なく、身体の欲求に従うものだ。
自分がかつてそうだったように。
最初に抱いた女の顔も名前も、もう、覚えてもいない。
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おまえは一体どういうつもりで、そうやってオレに抱かれているんだ、と問い詰めたくなった事
は一度や二度ではない。だが、アキラの何も言わない瞳に会うと、オレは何も言えなくなる。
まるでヘビに睨まれたカエルのようだ。
十以上も年下の子供に振り回されて、何をやっているんだ、と思う。
アキラに溺れきってしまっている、という自覚はある。
だがそれが、女とはまるで違う少年の身体に対してなのか、それともアキラという一個の人間
に対してなのか、どちらなのか分からない。
例えばアキラ以外の少年、そう、例えば進藤ヒカル。彼が相手でも十分楽しめるだろう、とは
思う。あの生きの良さそうなやんちゃ坊主相手ならば、アキラを抱くのとはまた違った楽しみ
が味わえるだろう。または今年プロに合格した少年―少年と言うのもギリギリかもしれないが、
彼も悪くなさそうだ。中々虐めがいのありそうなヤツだ。
芦原では―さすがに育ち過ぎか。
くだらない妄想に、緒方は喉の奥で笑った。
だが、例えば進藤ヒカルが誰に笑いかけようが、誰を気にかけようが構わないが、アキラが
進藤に笑いかけるのは、進藤を気にするのは気にくわない。不愉快だ。
だがそれが嫉妬なのか、ただの独占欲なのかはわからない。
所詮、オレには恋愛と肉欲の違いなどわからん。
だが、何かが間違っているような、どこかで道を誤ったような気がする。
今日のアキラの明るい笑顔。あんな顔は見た事が無い。
そしてオレを見た時の硬い表情は。
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家に帰り着いて、ドアのカギを開ける。
なぜ、電気が点いているのだろうと訝しむ緒方に、部屋の奥から声がかけられた。
「おかえりなさい。」
緒方は一瞬自分の耳を疑った。
そして足早に声のする方―寝室へと向かう。
そこには既にバスローブ姿の寛いだ様子でグラスを手にしたアキラがいた。
驚いている様子の緒方を見て、アキラはにっこりと微笑んで言った。
「合鍵をくれたのはあなたでしょう?それとも待っていたらいけなかった?」
今までは合鍵の存在など忘れたように、律義にインターフォンで緒方を呼び出し、エントランスの
オートロックと玄関のカギを開けさせていたくせに、なぜ今日に限って室内で待っているんだ?
だが緒方は眼鏡を外してサイドテーブルに置くと、別の質問を口にした。
「何を飲んでいたんだ?」
アキラは質問には答えずにグラスに残っていた透明な液体を口にした。
そしてグラスをサイドテーブルに置き、手を伸ばして緒方の顔を引き寄せた。
緒方の口の中でにジンの苦みと複雑な香りが広がる。
そのままアキラの舌が緒方の口腔内に忍び込んできた。
舌で緒方を探りながら、手は緒方のネクタイを緩め、シャツのボタンに手をかける。
その手を緒方が制した。
なぜやめるの?と言うようにアキラの目が緒方を覗き込む。
「子供のくせに、よくこんな強い酒を平気で飲むな。」
「そう…?美味しかったけど。」
見上げる瞳がアルコールのせいか潤んで艶っぽい。
「そう急かすな。オレは帰ってきたばかりなんだぞ?」
「ダメ。ボクはずっと待っていたんだから。」
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