裏階段 アキラ編 56 - 60
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頭の中で光が弾ける。目眩がして、周囲で歪んだ映像がゆっくりと輪郭を取り戻して行く。
体の下で同じようにアキラの肢体が痙攣し汗ばみ、ルームライトの光を反射させている。
手を伸ばし、黒髪をそっと撫でるとピクリと小さく白い肩が震えた。
下肢を重ねたまま彼の背中に覆い被さり、黒髪に口づける。
唇で髪をかき分けて首の後ろに辿り着く。
彼の髪の匂いは幼い時とあまり変わらない。ほのかに甘い。
特定の洗髪剤や整髪剤を使っている訳ではないだろうが、いつも同じ香りがする。
同じ雄で在りながら雄のある種の衝動を掻き立てる香りだった。
かすかにアキラの頭が動いた。顔をこちらに向けようとしているのだ。
その両肩を押さえて、首の後ろから背骨の始まりの部分に唇を這わすと
収まりかかっていた彼の吐息が再び荒く乱れ始めた。
余震は彼の体内の奥深くで今なお長く続いていた。
言葉は交わさなくても、目を見ないでも
一度だけでは互いに欲しいものを得られない事を了解し合っていた。
先生からオレの部屋を訪れる事を黙認されるようになって、逆に以前ほどはアキラは
そう何度もやって来る事はなくなった。
やはり意地になっていた部分があったのだろう。
そのかわりこちらも出来うる限り碁会所でアキラと会うようにし、碁の相手を
するよう努めた。
その代わり、部屋に時々やって来るアキラは、それまでよりも濃密な時間の過ごし方を
求めるようになった。
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パソコンに向かえば椅子を近付けて寄り添い、食事をすればただ黙って見つめて来る。
そして目が合ってしばらくが互いに押し黙ると、それが合図のように
唇を重ねて来た。
次第に触れあわせている時間は長くなり、離しても何度でもまた求めて来るようになった。
彼が自分の中に持て余しているものの行方を欲しがっている事は理解できた。
それらが発達しかけた性的な衝動と混在しているのだろう。
彼にとっての一種のマスターベーションであるその行為を禁じるのではなく、
好奇心を満たせてやる程度に与えてやった。
唇を触れあわせるキス以上の行為には進むつもりはなかった。
アキラが望んだとしても。
こちらが強く線を引いている事をアキラが気が付かないはずはなかった。
彼の中でオレとの事はささやかな冒険であり、非日常だった。
先生が望んだ通り、少しずつ彼は自らプロ試験を受ける決意を固めて言ったようだった。
一時期停滞した棋力も、彼の精神の安定を示すように上昇の気配を見せた。
そんなある日だった。
激しい雷雨のあったその日、彼は雨にずぶ濡れになった学校の制服のままで
オレの部屋にやって来た。
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ここ数日、自分は碁会所に出向いていなかった。
その間にそこで起こった事を、まだオレも先生も知らなかった。
その日は棋院会館で全国子供囲碁大会があり、そちらに顔を出した後
マンションに戻っていた。
囲碁大会の会場で不思議な少年と出会った。
アキラと同年代で、囲碁大会に出る訳でもなく、出場者の対戦を見て石の生き死にを
適格に言い当てたと言う。
子供の才能は量り知れないものがある。突如鋭い勘やひらめきを伴うこともある。
ただ安易にそれを天賦のものだとか、天才だと直ちに評価できるものではない。
そのひらめきを確実に必要な場面で毎回発揮できるようにコントロールできて
初めて才能と言うべきだろう。
ただ、予感はあった。今まではその予感すら抱かせてはくれない相手が殆どだった。
数多くのイベントや、指導碁に参加しながら無意識のうちにそんな予感を抱かせてくれる
子供を探していた。探し出してアキラと引き合わせたかった。
だが中々そううまく見つかるものではない。
直接その場を見た訳ではないので、その少年が本当に一瞬で石の活路を見切ったのかは
確証は持てなかった。事実ならばアキラに並ぶ実力のある可能性があったが、
それだけの力を持った子供がそれまで一切の大会に出て来ていなかった事が
信じられなかった。
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あまりにも大きな期待を持ち、それが現実のものとなりかかると、
人は喜びより先に不安や恐れを抱くものかもしれない。
ドアを開け、そこに立っていたアキラを見た時、
今まで見たことのないアキラの表情に言葉がつけなかった。
「どうした?」
そう問いかけてもただアキラは黙って俯くだけだった。
とりあえず濡れた制服を脱がせてタオルで頭を拭いてやった。
「…自分で出来ます。」
ようやくそれだけ答えるとアキラはタオルを手で持ち、ソファーに腰掛けてごそごそと
髪を拭っていた。
風邪をひかせないようにバスローブを肩にかけてやり、ミルクを温めて出してやった。
「ありがとうございます。」
彼の表情も声も硬いままだった。ミルクのカップを持つ指が白く震えていた。
かろうじて半分は意識がここにあるが、あとの半分は何処かに彷徨っているようだった。
しばらくはそんな彼の隣に腰掛け、彼が何か言葉を発するのを待った。
だが結局彼は何も説明せず、ただ深呼吸をするように息をついた。
そうして目を閉じ、開いた時は少し目にいつもの力強さを取り戻していた。
微かに、口元に笑みを浮かべてさえいた気がする。
後に彼にその事を指摘すると「覚えていない」と笑って答えていたのだが。
「…すみません。もう落ち着きました。…帰ります。」
制服はビニール袋に入れさせて置いてあった彼の服に着替えさせ、車で送ってやった。
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後に子供囲碁大会で出会ったその少年が碁会所でアキラと対局し、アキラを
負かしたという話を聞いた。しかも一度ならず二度までもだという。
碁会所の常連客からその両日の様子の話を聞いた時、オレも先生も
にわかには信じる事が出来なかった。
だがそれが棋院での子供囲碁大会に現れたあの少年が相手となると、信ぴょう性を
帯びて来る。
「…ぜひ、会ってみたいものだ。もう一度その少年に…。」
言葉は静かだったが、「たかが子供」と思わず、実力があるなら全て一人の
ライバルとして捉えようとする先生の気構えであり気質だった。
決して侮らず、その本質や正体を見極めるまで、結論を急がない。
そして先生が興味を持った事に、オレは関心を持った。
アキラのライバルを探しながら、もしかしたら先生は自分のライバルを探して
いたのかもしれないと思った。
街中の碁会所の近くでオレがその少年を見かけた事は、何かしらの運命的なものが
やはり働いたのだろう。
気がついたら思わず少年を追い掛け、捕らえた。
突然の事に当然ながら相手の少年は腕を掴まれた事に驚き、振払おうともがいた。
こちらも夢中だった。今思えば、多少のアザを彼の腕に残してしまったかもしれない。
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