裏階段 ヒカル編 56 - 60


(56)
考えてみれば、碁の神様に最も愛されているであろう少年にそんな事をやらかした者に御褒美が
与えられるはずがない。このままもう一度最下層に堕ちていくかもしれない。
それもいいかもしれない。今のオレに相応しい場所へ戻るのだ。
その夜は当然のように悪夢を見た。
誰とも分からぬ闇の向こうの相手と碁盤を挟み、次の手を打とうとする。
だが指に触れたものは碁石ではなかった。ぬるりとした感触を持ったそれは眼球だった。
碁盤の上に落ちたそれはぎょろりとオレを見つめる。盤上の石全てが同様に一斉にオレを見つめた。
碁盤の向こうに桑原の高笑いが響く。他の棋士らの笑い声も同時に聞こえた。
『出て行け!お前にはその座は相応しくない。碁盤を汚すものは去れ!』
叫び声を上げて飛び起きた。
汗で湿った夜着を脱ぎ捨て、のろのろとベッドから下りて台所に向かった。
アルコールの類を探そうと思ったのだ。
その時玄関のドアホンが鳴った。
小さな紙包みを持ったアキラが立っていた。

「…プロのお仕事で地方のイベントに行ったんです。お土産…なんてほどの
ものではないのですが…」
バスローブを羽織ってミネラルウォーターを喉に流し込むオレの背中にアキラは話し掛けて来る。
桑原との結果はもう伝わっているはずだ。
地方の碁のイベントに参加し、講習会を受けに来た者のなかに陶芸家がいて、返りに他の棋士らと
その人の個展に立ち寄ったという話をアキラは続ける。


(57)
「お父さんと色違いで選んでみたんですが…」
包みをアキラはテーブルの上に出した。
開けてみると深いチャコルグレーのシンプルなデザインの筆置きだった。
「緒方さん、雑誌に碁の解説の文章を載せる事があるじゃないですか。それで…あ、でも今は
全部パソコンで書いてしまっているんでしたっけ…」
そう言いかけてパソコンの机を覗き込もうとしたアキラの手を握って引き寄せる。
一瞬アキラは表情を強張らせるが、いつものように黙って従う。
抱き締めた瞬間に彼の全身から力が抜け落ちる。何故彼がここまでオレに対して
無抵抗なのかわからない。
限り無く優しい悪魔と限り無く残酷な天使――手の中の存在は果たしてどちらなのか。
どちらにしてもオレはその時はただ夢中で彼を抱いた。力が入り過ぎないよう注意を払い
優しく髪を撫で続けた。
オレの腕の中でアキラはただ静かに目を閉じている。

「…もう一度チャンスをくれないか…」
「…何の…ですか?」
アキラは小さな声で問い直し、首を傾げる。
その透明度の高い瞳を見て、オレはいかに自分が思い上がっていたかを知った。
アキラを汚すほどの力など、最初からオレにはなかったのだ。そしてこれからも。


(58)
アキラを壊す事が出来る者などいない。
例えいたとしてもその相手も無事では済むまい。
おそらく己の中の一部を、あるいは全てを壊してしまうに違いない。

進藤とオレに対するものは全然別のものだとアキラは何度も口にした。
それに縋る事にした。
アキラだけを責める事は出来ない。
オレの中にもいまだ先生を求める思いは強い。
それは精神的や肉体的な繋がりに対する要求ではなく棋士として先生を
追い詰めたいというものだった。
それは伯父の家で初めて先生の打つ碁を見た時から抱いていた願望だ。
ようやくそこに還っただけだった。
桑原すら打ち落とせない者には無謀な願いだという自覚はあった。
願いをシンプルに持つ事にした。欲が張った自分の姿にようやく気付いた。
ホテルの窓から見た夜景が安っぽかったのではなくそこに映った自分の姿が
存在感のない薄っぺらな存在だったのだ。


(59)
碁会所で久々に芦原と打った。
アキラはプロとしての仕事が増え、アキラ自身も意欲的にそれらに取り組んでいたので
碁会所にやって来る回数はかなり減ったようだった。
芦原は性格そのものの大らかでおっとりした碁を打つ。
状況判断や分析力に優れながら彼には野心がなく、リーグ入りには縁がない。
学者的な打ち手なのだ。その代わり根気良く丁寧な解説が出来るので彼の参加するイベントは
棋院にわざわざ問い合わせがあるほど人気がある。
それでも何かきっかけがあったら彼のようなタイプは一足飛びに化ける。
ある意味塔矢門下の中ではアキラ以上に警戒しなければならない相手とも言える。

「…ボクがこんな事を言うのも変ですが、緒方さん、アキラくんに優しくしてやって
ください。」
いつになく神妙な面持ちで打っているな、と思った矢先芦原がそう切り出してきた。
思わず手にしていた煙草を落としそうになった。

アキラとある議員らとの4面持碁の話をその時芦原から聞かされた。
「ボクみたいにマイペースになれとは言いませんけど、碁って一生掛けて向き合うものじゃ
ないですか。アキラくんはなぜあそこまで全力で駆け抜けようとするのか、見ていると
恐くて…やっぱりジジムサいですかね、こういう言い方は…」


(60)
芦原はアキラが碁石を持ち始めた頃に塔矢門下にやって来た。
地方の子供囲碁対局で、先生がたまたま芦原を見かけ、年令に似合わず丁寧で無理のない
打ち方が出来る事に感心し、声をかけたのがきっかけだったようだが詳しくは知らない。
よく研究会の時や庭先で煙草を吸っていた時のオレを遠巻きに興味深そうに眺めていた。
芦原に言わせると、最初オレが幼いアキラを疎ましく思っているように見えたらしい。
「すぐそれは誤解だってわかりましたけどね。いつだったか、大きな碁のイベントで先生が不在の
間、緒方さんが控え室でずっとアキラくんと碁を打ってあげていたじゃないですか」
と言っても芦原は当時はごくたまに研究会に顔を出す程度だった。
「それでもわかりますよ。アキラくんを見ている時の緒方さんの目ってとても穏やかですから」
「そんなに普段目を血走らせて打っていた覚えはないんだがな」
「恐かったですよ。何て言うか…言葉は悪いですが、何かに復讐するかのような凄みで打って
いましたよ。で、オレがアキラくんに聞いたんです。緒方さんが恐くないのかって」
「おいおい」
「アキラくん、即答でしたよ。『緒方さん大好きだよ』って。その頃はオレもちょくちょく
アキラくんと打ってやっていましたから、ちょっと妬けましたね。いつでもアキラくんにとって
緒方さんは特別な存在のようでしたから」
いつの話かは知らないが、どうでもいい事をアキラに言わせたものだと思った。



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