誘惑 第一部 56 - 60
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土曜はいつも和谷のアパートで院生仲間と研究会がある。研究会といっても、気心の知れた連中
との検討しつつ、雑談しつつの、ざっくばらんでラフなもので、ヒカルは毎週和谷のアパートを訪れ
るのを楽しみにしていた。それなのに、今日はこんな重い気分になるなんて。
ドアの前まで来てヒカルはまた小さなため息をついた。やっぱり今日は止めておいた方がよかっ
たかもしれない。そうも思った。けれど、ここで和谷から逃げてしまったら、余計にこの後顔を合わ
せづらくなるような気がする。そう思ったからこそ、帰りたい気持ちを抑えてここまで来たんだから。
ヒカルは小さく息をつき、それから意を決してドアのチャイムを押した。
「よおっ、和谷。」
「何しにきたんだ。」
だが、何とかいつも通りの明るさを装ったヒカルに、和谷は露骨に不機嫌そうな顔で応えた。
「何って…伊角さんとか冴木さんとか、まだ来てないのか?今日、研究会、やるんだろ?」
「なんだ、そんなの、今日はねぇよ。」
「えっ?」
「ああ、おまえには連絡行ってなかったのか。今日は中止だよ。」
確かに、和谷は不機嫌そうだというだけでなく、顔色は悪く髪もぼさぼさで、やつれた、というか荒ん
だ雰囲気がしていた。具合でも悪いのか。さっきの不機嫌そうな顔はそのせいなのか。それとも、
やはり先日の塔矢―と自分のせいなんだろうか。
「おまえ、ホントに、研究会のためだけに来たのか?」
斜に構えて鬱陶しそうにヒカルを見ながら、低い声で和谷が尋ねた。
「…他に、何かあるのかよ。」
「あいつから、何も聞いてないのか。」
ヒカルはぎくりとした。あいつ、と言うのはアキラの事だろうか。
やっぱり来ないほうが良かったんだろうか。あの事で自分を責めるつもりだろうか、和谷は。
「フン…言えるわけがないよな。」
棋院での事だけではないのか?訝しく思いながら、ヒカルは身構えた。が、和谷はヒカルに背を向け、
部屋の中へ戻る。ヒカルは訝しげに思いながら靴を脱ぎ、和谷の後をついて部屋に入った。
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和谷は畳の上に乱暴に腰を下ろし、ヒカルを見上げて、いきなりこう言った。
「おまえ、この間、棋院で塔矢とキスしてたよな。どういう関係なんだよ、おまえら。」
「そんなの…和谷には関係ない。」
「さてね、」
そう言いながら和谷は片頬を歪んだように引きつらせながら言う。
「あながち、関係ない、とも言えないけどな。」
「こないだ、あいつ、ここに来たぜ。」
塔矢が、ここに?なんだか嫌な感じがした。やっぱり来ない方がよかったか。ヒカルは無理
してここに来た事を後悔しはじめていた。
「おまえとの事で、話があるって言ったら、素直に来てくれたぜ。あいつも結構バカだよな。」
にやにや笑いながら、ヒカルを弄るように和谷が言った。とてつもなく嫌な事を聞かされるよう
な気がして、ヒカルは身体を強ばらせながら問い返した。
「どういう、ことだ?」
「よかったぜ。あんなにイイとは思わなかったな。」
その言葉の意味するところに、ヒカルの身体がショックで凍りつく。
「……何を…した?塔矢に…オレの塔矢に、何をしたんだ?」
震えながら問うヒカルに、和谷が噛み付いた。
「オレの塔矢、だって?どういうつもりでそんな事言えるんだ?
言えよ。答えろよ。おまえは塔矢の何だ?塔矢はおまえの何なんだよ!?」
予想外の和谷の剣幕にうろたえ、混乱したヒカルは、まるで自分に言い聞かせるように答えた。
「そんなの…そんなの、何かなんて、どうでもいい。オレが塔矢が好きだし、塔矢が好きなのは
オレだ。それだけでいい。それ以上何が必要なんだ。」
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ヒカルがアキラとまるで同じような事を言うのが悔しかった。
なぜだ。なぜこいつなんだ。オレでなく。なぜ塔矢はいつもこいつの事しか見てないんだ。
悔しくて、初めてヒカルを憎いと思った。
自分を置いてどんどん先に行ってしまうヒカルを。自分にとっては憧れを認めることさえ困難だっ
た宝に、自分の屈折した思いなど知りもせずに屈託なく無邪気に近づいて、オレが尻込みして
る間に、あっという間に自分のものにしてしまったヒカルを。
だがオレは多分、こいつの知らない切り札を握っている。知らないから、こいつはこんなに単純に
言えるんだ。『オレの塔矢』なんて。何が『オレの塔矢』だ。あいつはおまえのモノなんかじゃない。
それだけを頼りに、和谷は必死に自分を奮い立たせる。
「ふふん、それがおまえだけじゃないって知ってても、そんな事言えるのかよ?」
「…何が言いたいんだよ?」
「塔矢の相手はおまえだけじゃなくてもそんな風に言えるのかよ?」
「どういう…事だ。」
「おまえもきっとよく知ってる…いや、塔矢はもっとよく知ってるんだろうな。何せ同じ門下だ。」
和谷のほのめかしは否応も無く、ヒカルの記憶の中の苦々しい映像を思い出させる。アキラを
抱いていた長身の男。自分のような子供とは違う、逞しい大人の男。
でも、違う。それはもう終わった話だ。今でも続いてるなんて、そんな事はありえない。
でも、それならなぜ和谷がそんな事を知ってるんだ。知ってるとしたら、その理由は…考えたく
ない。そんな事は聞きたくない。思い出したくもない話を、どうしてこいつが知ってるんだ。どうし
てこいつが蒸し返すんだ。
だが吐き捨てるように、ヒカルは言った。
「…昔の、ことか。それだったら知ってるよ…!」
「へえ、知ってるんだ?それで平気なんだ、お前は?あいつが緒方十段ともデキてでも?」
やっぱり、そいつなのか!?聞きたくなかった名前に頭の中で悲鳴をあげながら、ヒカルは叫んだ。
「知ってるよ、そんな事!でもそれはもう終わった事だ。今のオレ達には関係ねぇ!!」
「終わってる?終わってるもんか、あれが。
終わってるって言うんなら、なんで塔矢はおまえじゃなくて緒方十段の事を言い出したんだよ?」
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聞きたくなかった事実を和谷が無理矢理ヒカルの眼前に押し付ける。
それだけで、ヒカルは泣きだしそうになっていた。
「塔矢が…緒方先生の事、なんか言ってたのか?なんて言ってたんだ…!?」
そんなヒカルを、和谷は面白そうにニヤニヤ笑いながら言った。
「フン、進藤、おまえさ、塔矢の事、なんて呼んでる?」
何をいきなり言い出したのか、ヒカルは和谷の意図がつかめずに、それが何だ?と言うふうに
和谷を見た。
「あいつが、塔矢が何で緒方の事なんか言い出したか、知ってるか?」
聞きたくない。そんな事。聞いちゃいけない。そんな気がする。
「いい。もういい。そんな事。オレには…オレ達には関係ない。」
そう言って立ち上がり、背を向けようとしたヒカルに、弄るような口調で和谷が続ける。
「アキラ、ってオレが呼んだら…」
『アキラ』と、殊更、強調するように、和谷はゆっくりと甘い声で呼びかけた。その呼び方は以前
聞いた緒方のアキラへの呼びかけを思い起こさせ、思わずヒカルは振り返って和谷を睨みつけ
た。そんなヒカルを見透かしたように和谷が言う。
「『オレの塔矢をそんなふうに馴れ馴れしく呼ぶな』ってか?フン、馬鹿だな、おまえ。」
和谷が嘲笑うように、ヒカルを見上げて、続ける。
「『誰が許した』だとよ。そんな呼び方を誰が許したってさ。何様のつもりだよ、あいつは。
フン、馬鹿にしやがって……けどな、そんなふうに呼んで良いのは…」
和谷はふらりと立ち上がり、ヒカルの胸元を掴んで顔を寄せ、
「おまえじゃねえってさ、進藤。」
耳元で嘲るようにささやいた。
「そんなふうに呼んでいいのは…『アキラ』って呼んでいいのは、緒方だけだってさ。」
心のどこかで半ば予想もしていた和谷の言葉に、だがやはりヒカルは打ちのめされる。打ちのめ
されて、言葉も出てこない。確かに手に掴んでいたと思っていたものが、この世で一番大事だと
思っていた宝物が、粉々に砕けてさらさらと指の間からこぼれてしまって行くような気がした。
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「ハッ!」
愕然とした表情のまま凍りついてしまったヒカルを嘲るように、和谷が笑う。
「ハハハッ!ざまあ見ろ。なーにがオレの塔矢、だ。名前も呼ばせてもらってないくせに。
ハハッ!おまえなんか、相手にされてねぇんじゃねぇか?遊ばれてるだけじゃねえの?
あいつが…おまえみたいなガキ、本気で相手にするかよ?おまえになんか扱いきれねえさ!
どうせ『許して』もらってないんだろう?『アキラ』って呼ぶのをさ。」
いかにも可笑しそうに、嘲り笑いながら、和谷は続けた。
「大体、あいつはおまえの事、なんて呼んでんだよ。『進藤』か?
ハハッ!バッカじゃねえの?『塔矢』、『進藤』ってか?ハハハッ!それが恋人同士の呼び名
かよ?ハン、おまえが勝手にそう思ってるだけじゃねぇのか?
ハハハ!おまえだってオレと大して変わんねーよ!あいつに誘惑されて、その気になって、
でも実際はあいつにいいようにからかわれてるだけなのさ!
あいつがおまえのモノだなんて、おまえの思い込みだけさ!!」
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