誘惑 第三部 56 - 60


(56)
「…ってね、芦原さんにばらしちゃった。」
電話の向こうの、アルコールのために饒舌になっているアキラの笑い声を聞きながら、ヒカルは
呆れたように言った。
「おまえら……ひでぇ…。芦原さん、可哀想じゃん、なんか…」
「まあ、芦原さんも信じてなかったみたいだけどね。」
「そりゃあそうだろう。」
「だからさ、今度キミも一緒に飲みに行かない?見せ付けてあげようよ。芦原さんに。」
「おまえ、いい加減にしろよなぁ。大体、未成年だろ、おまえ。」
「ああ、そっか、キミ、酒はあんまり強くないんだっけ。」
「だからまだ未成年なんだから、当然だろ。」
「ハハ、潰れたらボクが介抱してあげるから。」
「やだ。」
ヒカルは即座に断った。
「やだ。おまえが介抱するってなんかヤな気がする。何されるかわかんねぇじゃねぇか。」
「何されるかって、ボクが何するって言うのさ?何期待してるの?」
「期待なんかしねぇよ!バカ!!」
「しないよ。酔っ払って潰れてるヤツ相手にやったってつまんないじゃないか。」
つまるとかつまんねぇとかじゃねぇだろ。
やっぱ、オレはこいつに遊ばれてるのか?
ああ、畜生。どーせオレはガキだよ。カワイイよ。
いいさ。好きなだけオレをからかって、ユーワクして、遊べばいい。
「それより進藤、明日は?何時頃来れる?」
「あ、うん、いや、行ってもいいんだけど、えーと、たまにはウチに来ない?」
「え?」
「お母さんがさあ、なんか、いっつも塔矢くんちに遊びに行ってばっかじゃなくって、たまにはウチに
来てもらいなさい、って。」
「え?え…と、もしかして、あの…やっぱり快く思われてらっしゃらないんだろうか…」
「あ、ううん、それはないと思う。お母さんも塔矢くんに会いたいわあ、なーんて言ってたし、」
「え、ええっ?」
「なーに照れてるんだよ、バカ。で、どう?だいじょぶ?」
「勿論。それじゃ…」


(57)
アキラの持ってきたケーキの箱を受け取って、ヒカルは、ホント、おまえって律儀だよな、とヒカルは
からかうように言った。
「お母さん、今、買い物出てるんだ。じき帰ってくると思うけど。
飲むもん持ってくから、オレの部屋に上がってて。」
「うん、それじゃ。」
促されて、アキラは一人、2階のヒカルの部屋へ向かった。
以前にはよく訪れていたこの部屋に来るのは久しぶりかもしれない。そう思って部屋を見回していた
アキラの目が、部屋の隅に置かれた碁盤の上で止まった。
そしてちらっと後ろを振り返ってからゆっくり近づいて屈みこみ、碁盤にそっと触れた。
いつだったか、「この碁盤は特別なんだ」と、そう言っていた。「だから今は打てない」と。
多分それは「いつか話すかもしれない」事と繋がっているのだろうと思う。
その事については自分からは聞かない事に決めた。だからこの碁盤の事についても何も聞かない。

アキラは、この碁盤の前に座るヒカルを思い浮かべながら、表面をそうっと撫でた。
大切なものを慈しむように。
ヒカルはいつからこの碁盤で打ち始めて、これにはどんな思い出があるのだろう。きっと自分が
ヒカルといるよりもずっと長く、この碁盤はヒカルと共にあったのだ。そう思うと、とても大切に扱わ
れている事がわかるこの碁盤が、羨ましいような気がした。
そう言えば、もう随分、進藤とは対局していないな、とアキラは突然気付いた。


(58)
打ちたい。
突然湧いてきたその気持ちは、気付いてしまったら抑えがたかった。
進藤と打ちたい。
どうして今まで打たないでいられたんだろう。
離れていた時を補うように抱き合う事に夢中で、碁は放っておかれたままだった。
でも、思い出してしまった。打ちたい。いっときだって我慢できない。いますぐに、ここで。
でも、この碁盤は。

突然、背後で物音がして、アキラは驚いて中腰で振り返った。
「わわっ!」
ペットボトルとコップを持ったヒカルが慌てて仰け反った。
「何だよ!いきなり!」
「…ごめん。急に後ろにいたから…」
「声、かけたぜ?」
「え、そ、そう?」
なぜだかしどろもどろになってるアキラに向かって、ヒカルはにこっと笑った。
「ウーロン茶でイイ?」
「う、うん。」


(59)
「なんか、新鮮。」
「何が?」
「ここに塔矢がいるのが。」
何を今更、とアキラは思う。この部屋に来たのは、確かに久しぶりではあるけれど、今までに何度
も来ているのに。それを見越したかのようにヒカルが言う。
「そりゃ、今までにだって何度も来たことあるけどさ、」
ヒカルは一旦言葉を切って、アキラの顔から目を逸らし、それから低い声で話し出した。
「あん時さ、オレ、もう、会えないのかもしれないって、思ってた。」
ヒカルの話し出した内容に、アキラが表情を曇らせた。
「オレ、おまえが中国に行っちゃったのも知らなくて。
置いてかれたって、思った。
もう塔矢はオレなんか要らないんだって。だから一人で行っちゃったんだって。
バカだよな。自分から会いたくないって言ったくせに。」
ちらっと顔を上げてアキラに向かって小さく笑い、それからまた俯いて、続けた。
「でも、そのあと、おまえの打った棋譜見てさ、オレ、思ったんだ。
塔矢ってやっぱりすげェや、オレも塔矢と打ちてェって。そんで、ずーっとその棋譜見てた。
あん時、オレ、おまえとはもうダメなんだと思ってた。でも、それでも、おまえがもうオレなんか要ら
ないって言っても、それでもオレはおまえを追い続けてしまうだろうって。オレとおまえとの間の絆
は、切りたくても切れないんだって。オレがずっと打ち続けてて、やっぱりおまえも打ち続けてたら、
それだけで、オレはおまえと一緒にいられるって。
オレ、一人の人間としての塔矢アキラがすごく好きだけど、おんなじくらい、碁打ちの塔矢アキラ
が好きだ。おまえの碁が好きだ。オレの憧れだ。だから、」
そう言うと、ヒカルは顔を上げて、真っ直ぐにアキラを見た。
「打とう。」
ヒカルの、迷いも無い真っ直ぐな眼差しに、アキラは目を瞬かせた。
「オレと、打って、塔矢。」


(60)
そう言ったヒカルは碁盤の前に座ってアキラを待つ。
「あ、でも…いいの?」
そんなヒカルに、僅かに怯えたようにアキラが言った。
「いいの、って…何が?」
「だって、」
と言って、碁盤を見、それからヒカルを見る。けれどヒカルはアキラが何が言いたいのかわからずに、
どうしたんだ、と言うように首をかしげた。
「その、碁盤。」
「碁盤が?何?」
「ボクとは打たないって、言ったじゃないか。」
「何だよ、いつの話してんだよ。」
「その碁盤は…特別だから、使えないって、言ったじゃないか。」
「オレ…そんな事、言った?」
「言ったよ。」
「いつ。」
「いつだったか…そう、確かボクが初めてここに来た時に。」
「……あっ、」
「そうだよ。ボクが打とうかって言ったら、キミはダメだって。」
息を飲んで呆然とした表情のヒカルに気付いて、アキラは訝しげに声をかけた。
「……どうしたの?」
そうだった。思い出した。塔矢が初めてうちに来て、ここに泊まっていった時。打とうかって、こいつが
言った。けどオレはダメだって言ったんだ。だって、オレ…。
「バカヤロ……思い出させんなよ…」
不意にヒカルの顔が歪む。
「だから…だから、ヤだったんだよ。この碁盤は、特別だから、だからおまえと打ったりしたら、オレ、
泣いちゃいそうだって、おまえに泣き顔なんか見せたくないって、そう思って、だから…」



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