平安幻想異聞録-異聞- 56 - 60


(56)
次の朝、部屋の惨状を見て、驚いたのはヒカルの家族だった。
どういうわけか、あれだけの騒ぎにも関わらず、音は外に漏れておらず、
ヒカルの母も祖父も夜半に何が起きたか気付いていなかったのだ。
いぶかしむ近衛家の人々を、「盗賊が入って、見事にヒカルが撃退したんですよ」
といってケムに巻きながら、佐為は、柱を見上げた。
そこにあったのは数日前、アキラが置いていき、自分がはりつけた、破邪の札。
術力を放出し、力を使い果たしたそれは、今は黒焦げた唯の紙になっていた。
(アキラ殿、助かりました)
佐為は心の中で礼を言う。
部屋の片づけをヒカルの母に任せて、佐為は、青い顔でうつむいたままの
ヒカルを支え、朝餉の席につく。
そのあと、ヒカルは、家族の目のないところで、食べたものを全部吐いて
戻してしまったが。
そのヒカルの背をさすりながら、佐為は切りだした。
「ヒカル、アキラ殿の所に行きましょう」
「賀茂の…?」
ヒカルが弱々しいしぐさで顔をあげた。
「えぇ、これは、どう考えても、誰かがヒカルに向けて仕掛けた呪としか
 思えません。ならば、その方面にお詳しい賀茂アキラ殿に助けを求めるの
 が道理でしょう」
「うん……そうだな……」


賀茂アキラの家に向かう途中、ヒカルは佐為の右手を見た。
昨晩、魔物に搦め捕られたその手首には、何かできつく縛られたかのような
赤い帯状のあざが出来ていた。
佐為の白い手首にその痣は浮き立つように目立った。
ヒカルは黙って、そこに手を伸ばし撫でていた。


(57)
「痛かった?」
「ヒカルの痛みに比べれば、どうということはありません」
言いながら、佐為は昨晩のことを思い出す。
あの様なおぞましいものを、人にけしかけるなど正気の沙汰ではなかった。
あれをこの世に呼び込んだ人間は気が振れているに違いない。
そして、そんな気が違っているとしか思えない悪趣味なことを、正気のままで
出来る人間を佐為は知っていた。
異形のモノが去った後、体を丸めるようにうずくまって震えていたヒカルの
泣き声が耳について離れない。
――(やだ……やめて………お願いだから…、もう、………許して………)
あの、悲痛な声を聞いてしまえば佐為にだって容易に想像がつく。
あの下弦の月の夜、その者たちはきっと、そうやって泣いて許しを乞うヒカルの
体も心も踏みにじり、思う様傷つけたのだ。
(政争に負けた恨み辛みなら、私自身にぶつければよいものを!)
「佐為、眉間にしわ」
「えっ?」
佐為は、ふとすぐ横のヒカルをみた。ヒカルは佐為の顔を見上げて笑っていた。
「今、お前、すげぇ怖い顔してた」
「碁を打ってる時みたいに、ですか?」
佐為は、ヒカルによく『お前、碁を打ってるときの顔、すごい怖い』と言われるのを
思い出して切り返してみた。
「ううん。碁を打ってる時とは違うかな。碁を打ってるときのお前は
 怖い顔してるけど、なんていうのかな、落ち着いてて綺麗だもん。
 でも、今のお前の顔、怖かった。怒った目をしてた」
「気をつけます」
「別にいいけどさぁ」
そう言いながら、ヒカルは薄曇りの空を見上げる。今年最初の雁の群れが、
空をカギ型になって横切っていた。
実をいうと、ヒカルは少し嬉しかったのだ。
佐為が自分の為に怒ってくれているのはよくわかったていたし、何より
その事で自分は独りじゃないんだと、勇気付けられる気がしたからだ。


(58)
『蠱毒?!』
佐為とヒカルは、ふたり声をそろえて聞き返していた。
「えぇ、おそらく」
真夏に来ても、なぜかひんやりと冷たい賀茂アキラの部屋は、また、
どういうわけか、外がどんなに煩くてもその音が聞こえない様になっている。
「……って、何?」
ヒカルは、目をまたたかせて、アキラを見た。
「虫を使った呪の一種だよ。大きなツボにね、たくさんのムカデやヤスデといった
 虫を閉じこめて埋めておくんだ。それが飢えて、暴れて、共食いしあって、
 最後の1匹になるまで殺し合わせる。その全ての恨みを飲み込んで生き残った
 最後の1匹の怨念を、呪いたい相手に差し向けるんだ」
「ムカデ……なんだ、あれ」
てっきり、あの蔦のような異形の正体は蛇かミミズみたいなモノの変化だと
思っていたが、どうやら違うらしい。そんなことがわかっても、ちっとも
嬉しくないけれど。
「蛇やミミズを使うこともあるよ」
アキラがヒカルの思考を拾ったように言った。
「あと、犬とか。犬の場合はね、こう首だけ出した状態で地面にうめるんだ。
 で、口が届くか届かないかのところに餌をおいて、そのまま……」
「もういい……」
ヒカルがうんざりした顔で、アキラの言葉を止めた。
「先日のヒカルの傷もようやく癒えて、気の緩んだときにこのような。
 姑息なことをする」
佐為が小さく怒りを込めてつぶやいた。アキラが答える。
「蠱毒とはそうしたものです。おそらく実際に仕掛けられたのは、
 近衛が暴漢に襲われた夜でしょう。それから、虫達が殺し合い、喰らいあい、
 怨念にまみれた最後の1匹にまでなったのが、おそらく昨晩。日数的には
 ピタリとあいます。で、その異形はまだ滅びていないんですね、佐為殿」
「はい、アキラ殿の護符のおかげで、一度は退きましたが、おそらく根は
 生きているでしょう」
「なるほど。佐為殿、今夜、近衛を僕に預けていただけないでしょうか?」


(59)
佐為とヒカルは顔を見合わせた。
「この屋敷には、強力な結界が張り巡らされています。近衛の家や佐為殿の家に
 いるよりは遥かに安全なはずです。それに今夜また、その蟲が現れるような事が
 あっても、僕なら上手くすれば、調伏し滅することが出来るかもしれません」
「なるほど」
「いいかな、近衛」
「いいも何も、それしかないんだろ?」
そう言って、ヒカルは横に座す佐為の手首を見た。手首に巻き付くように残る
赤い痣が痛々しかった。危険なのはヒカル自身だけではない、一緒にいる佐為も
危険なのだ。何より、これ以上佐為を危険な目に合わせたくない。
なにしろ自分は佐為の護衛なのだ。
その護衛が、佐為の危険の元になってどうする。
「うん。オレ、今夜はここに残るよ」
隣りの佐為の顔を見上げる。細い眉が心配そうにひそめられていた。
「大丈夫だよ。賀茂がいるし」
「そうですね…わかりました。ヒカルの家には、私が帰りに寄って、
 今日は賀茂家に宿泊の旨、伝えておきましょう」
「頼む」
佐為が長い髪を揺らして立ち上る。
ヒカルは帰途につく佐為を、門のところに立ち、賀茂アキラと肩を並べて見送った。
「部屋に入ろうか」
門を閉めようとする、アキラの手をヒカルの手が差し止めた。
「ごめん、ちょっと先に部屋帰ってて」
そう言い残して、ヒカルはわずかにまだ開いていた門の隙間から通りへ、
アキラを残したまま、しなやかな仕草でするりと抜け出す。
「佐為!」
後ろから走ってきたヒカルに、佐為が驚いて振り向いた。
その佐為に、ヒカルはそのまま飛びつくように抱きついて、背伸びし、
つま先立ちになり、唇を合わせる。
淡い口付けだった。
どんな人目があるかもわからない往来でのこの行為に最初は驚いた佐為だったが。
すぐにそっとヒカルの背を持ち上げるように手をまわす。
お互いの身体の温かさがじんわりとしみてきて、離れがたかった――。


(60)
ヒカルが部屋に戻るとアキラが何やら、あちこちに札を貼り付けては九字を切り、
小さく口の中で呪言のようなものを唱えている。
「何してんだよ」
「結界の補強だよ。普段からこの家には、かなり強い結界が張ってはあるんだけどね。
 念には念を入れだ。寝所のまわりにもと思って」
「ふうん」
作業をするアキラをヒカルは興味深そうに見つめる。
「今夜も来ると思う?」
「たぶんね」
聞いただけで、ヒカルの背筋を悪寒が走った。昨晩、自分の身体に絡まった、
ベッタリとした肉の感触。中にまで入り込んできた、異形の蛇のやけに
ひんやりとした……
「顔色、悪いけど大丈夫?」
「平気だよっ」
「確かに。それだけ、強がれれば大丈夫だ。なにしろ相手は妖力を蓄えたムカデ
 だからね、心してかからないと」
「ムカデかー」
「そう、歳20年を数えるオオムカデだよ」
「20年………」
アキラの目は真剣だ。どう答えていいかわからずに、ヒカルはバカな事を言った。
「オレより年上なんだな、そのムカデ」
「……………」
重い沈黙が落ちた。アキラがボソリと口を開く。
「冗談だったんだが」
だいたい、ムカデの年齢なんかわかる訳ないだろう、と。
「あ、あのなーーーーっっ」
「うん、そうしてる方が、君らしいな」
そう言って、アキラは照れたように、また作業に戻ってしまった。
もしかして、こいつ、オレのこと元気づけようとしてくれてるのかな、とヒカルは思う。
ひどく不器用なやり方ではあるけれど。
(そういえば、あの妖怪退治の時も、その後も、オレ達が会うときって、いつも
 そばに他の誰かがいて、二人っきりってのはなかったよな)
小さなころから陰陽師として教育を施され、家族らしい家族は使役する式神だけ
だったらしい。
そのことで昔、アキラとはケンカになって、囲碁での勝負までしたことがあった。
そして、それがきっかけで、少しはお互いのことを知るようにはなったけど。
そんなことをつらつらと考えながらヒカルはアキラの動きを眺めていた。



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