光明の章 56 - 60
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「おはよう」
二ヶ月以上のブランクなど全く感じさせない程、アキラはごく自然に、ヒカル
に声をかけた。日曜だというのにチャコールグレーのスーツに身を包み、おま
けにネクタイまで締めている。
アキラは行儀良く揃えた両膝の上に仕事用の黒い手提げ鞄を乗せ、顔だけをヒ
カルに向けると、今から実家に帰る所なんだ、と笑顔を見せた。
「塔矢…お前…」
しばらく見ないうちに、アキラは随分と痩せたような気がする。揺らぐ眼差し
にどこか病的な弱々しさを感じ、ヒカルはアキラの具合が気になって車内へと
半身を乗り入れた。
「体大丈夫か?病気とか、そんなんじゃないだろうな」
「…心配してもらうような事は何もないよ。大丈夫。それより進藤、傘を持っ
てきてないんだろう?雨も降ってきたし、家まで送るよ。ここからだと進藤
の家の方が近いから、先に回って貰えばいい」
「でもオレ、タクシー代出せるほど金持ってきてねェし…」
腰ポケットの財布に手をあて、慌てて車から身を離したヒカルに、アキラは手
にしたタクシーチケットを得意げに振ってみせた。
「心配しなくてもいい。ボクもこれ、もらい物なんだ」
「えっ、けど…」
「雨がひどくなる前に早く──進藤」
アキラの声に促され、ヒカルは急いでタクシーへと乗り込んだ。それを合図に
ドアが閉まると、アキラは運転手に進藤家の住所を告げた。
「お願いします」
運転手は頷き、車を発進させた。二人を乗せ、タクシーは遠回りの道を走る。
ヒカルはすでに後悔し始めていた。ろくに心の準備も出来ていないくせに、ア
キラに会えたことが嬉しくてつい、誘われるまま便乗してしまった。もしアキ
ラが越智の家を出たばかりの自分を敏感に察知し全てを知れば、激しく咎めら
れるのは必至だ。ヒカルはそれが怖くて、二の句が告げなかった。
示し合わせたように、二人は五分間ほど沈黙を続けた。
雨は少しずつ強くなり、タクシーの車体へとぶつかった雨音が忙しくリズムを
刻む。憂鬱な雨の音も、今のヒカルにとってはアキラと同じ時間を共有してい
る証拠のようなものだ。
甘く、深い森のような香りがヒカルの鼻孔をくすぐる。まぎれもなくアキラの
体から漂う大人のような香りに、ヒカルの顔が一瞬曇る。自分の知らないうち
に、アキラは香水を付けるようになったのだろうか。
「……塔矢、お前なんだか車の中みたいな匂いがする…」
すでにここはタクシーの車内なのだが、“車の中みたいな匂い”とあらためて
言われてアキラはしばし考える。そして気付く。ヒカルは自分についている残
り香が、車の芳香剤のような匂いだと言っているのだ。
残り香のお土産なんていらないんだけどな、とアキラは苦笑する。
「キミの声を聞くの、久しぶりだ」
「塔矢」
アキラはゆっくりとヒカルへと手を伸ばし、あの時と同じように掌でそっと、
ヒカルの頬に触れた。
「…今日は逃げないんだね」
どこか安心するようなアキラの声が、ヒカルの胸にジンと響いた。
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タクシーが左折する、その振動に合わせて、アキラはヒカルから手を離した。
確かめたかった温もりを、指の先に大事に閉じ込めながら。
ヒカルは離れがたい指先を追おうとしたが、やめた。こんなにも至近距離にい
るアキラなのに、何故かまだ遠くに感じてしまう。それは後ろめたい秘密を抱
えている自分のせいなのか、それともアキラの方が意識して距離を保っている
からなのか、今のヒカルには判断がつかない。
「犯人は緒方さんだよ」
「え?」
「ウッディ・ムスク。匂いの正体」
何かを含むように、アキラがクスクスと笑う。
「さっきまで、緒方さんがボクの隣に座っていたんだ。実は昨夜、二人である
大先生の名ばかりの検討会に参加したんだけど、緒方さん、そこで少し飲み
過ぎてね。朝になってもアルコールが抜けなかったみたいで、酒気帯びで捕
まりたくないからタクシーで帰るぞって。だからこの匂いは、ボクじゃなく
て、緒方さんの残していったものなんだよ」
嘘は何一つついていない。だが、隠している事実もある。アキラはみぞおち辺
りに鈍い痛みを感じながらも、
「ついでにこのチケットも緒方さんのなんだ」
と付け加えた。
例え相手がヒカルであろうと、逐一報告しなければならない義務はない。ヒカ
ルだからこそ言えない、知られたくない出来事もある。そんな強がりを嘲笑う
かのように、全てを打ち明ければ楽になれると、負の感情がアキラの袖を引く。
アキラは口を開く代わりに、ヒカルの右手を掴んだ。
「…手を繋ぎたい…いい?」
「塔矢、オレ……」
縋るように伸ばされたアキラの左手をとり、ヒカルは指を絡ませ、強く握る。
「……オレ、ヘンじゃない?おかしくない?…だって…お前と会ってない間に、
絶対ヘンな風に変わってる…前とは違っちゃってるんだ、オレ」
ヒカルはそう言うと、不自然な染みの付着したシャツへと目を落とした。数時
間前の狂態が夢ではない事を裏付ける、忌々しい痕跡。どうせ断罪されるなら、
アキラからがいい。ずっとそう思ってきたが、いざ本人を目の前にすると勇気
が出ない。死ぬよりも、アキラに嫌われる事の方が怖い。
「キミは変わってない。むしろ、変わったのはボクの方だ」
アキラは、手の中にあるヒカルの柔らかな感触とささやかな体温を逃さぬよう、
さらに強い力で握り返した。
雨脚が筋となり、白い矢のようにどんどん地面に突き刺さっていく。誰かの怒
りのようにタクシーを横殴りする雨の、激しい、暴力的な響きが、何故か今は
耳に心地良い。壁を壊せない自分の代わりに、閉じた世界を破壊してくれてい
る──アキラはそんな錯覚に陥った。
「泣いてるみたいだね」
アキラの呟きに、ヒカルは自分のことかと顔を上げた。アキラの視線は窓の外
へと注がれている。空模様の事を言っているのだ。
「全部、雨に流せたらいいのに……」
小さな独り言は、ヒカルの耳まで届かない。アキラは繋いだ手が離れないよう、
もう一度ギュッと握り、そのまま目を閉じた。
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このまま二人で遠い何処かへ逃避行する。アキラは内心芽生えた、このありき
たりな感情に素直に従うことが出来たらと本気で考えた。
──もし実行すれば…。
行く末を心配する家族や、二人が消えることによって迷惑を被るであろう大勢
の人々よりも、タクシー会社からの莫大な請求金額に目を丸くする緒方の顔が
真っ先に浮んでくる。
──たまにはそんな風に困らせてみるのも悪くないな。
誘えば、きっとヒカルはついて来てくれるだろう。自分と同じように、ヒカル
もまた、ようやく掴んだこの手を離しがたく思っているはずだ。
解れかかっていた二人の絆は、繋いだ手のぬくもりによって修復されたような
気はする。けれど、未来への約束と信じ込むには弱すぎる絆だ。
事を急きそうになる自分を、アキラは自嘲する。あてつけのような家出ごっこ
に、何も知らないヒカルを付き合わせるわけにはいかない。二人だけになりた
いという気持ちは常にこの胸にある。ただ、まだこの場所から逃げたくはない。
大切なヒカルの為にも。
ヒカルは、目を閉じたまま動かないアキラに身を寄せ、その肩に頭を乗せた。
緒方のものだという甘い香りが、アキラのスーツからもふわりと立ち昇る。緒
方の残り香などではなく、アキラ自身に染み付いた匂いだった。
色とりどりの傘が窓の外を横切ってゆく。雨は滝のように激しく流れ落ち、水
のカーテンとなって車内と車外を断絶する。
不思議と閉塞感はない。何故か、雨に守られているような気がする。
「帰りたくねェ……」
アキラと二人、こうして雨の中を走り続けていたい。
「塔矢」
返事はない。眠っているのかと、ヒカルは問い掛けるのを諦めた。
荒々しく聞こえた雨音も、慣れれば子守唄のように優しく響いてくる。
ヒカルはしばらく雨の音に耳を傾けていたが、少しずつ少しずつ、まどろみの
中へとその身を沈めていった。
それから約二十分後。
「着きましたよ」
運転手は、後部座席で寄り添いあいながら仲良く眠る二人にそっと声を掛けた。
気持ち良さそうにぐっすりと寝入っている様を見ていると、無理に起こすのは
可哀相だったのだが、目的地に着いてしまった以上仕方のないことだ。
先に目覚めたアキラが、ヒカルの肩を揺する。
「進藤、キミの家だよ」
「……ぅあ?…ああ、もうオレんちか」
いつの間にか、二人の指は離れていた。ヒカルは急に不安になる。
「家、寄ってけよ。オレ、お前と話したいことがいっぱいあるんだ」
アキラは少し考え、言いにくそうに口を開いた。
「悪いけどまた今度にするよ。今日は…ちょっと疲れてて…」
「……そっか」
アキラは、肩を落としたヒカルの顔を引き寄せると、運転手の隙をついてあや
す様にキスをした。
「すぐ、会える」
二ヶ月ぶりのキス。言葉以上に確かな約束を胸に、ヒカルはアキラを乗せて走
り去っていくタクシーを、いつまでも見送っていた。
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「──康介」
部屋の扉を数回ノックする音に、祖父の声が重なる。何やら夢中になってパソ
コンに向かっている越智は、その声を背中で受け止めただけで、振り返ろうと
はしない。
「康介。おい、康介!」
「そんなに大きな声を出さなくてもちゃんと聞こえてるよ、おじいちゃん」
キリの良い所でデータを保存し終えると、越智はパソコンデスクから身を離し、
部屋の扉を開けて祖父にその顔を見せた。
「何の用?」
「お前の都合が良ければ、今からワシと一局打ってもらおうと思ったんだが…
どうだ、あれの使い心地は」
部屋の中を覗いた祖父は、越智のパソコンに接続されている最新型のデジタル
ビデオカメラに気付き、感想を訊ねた。そのカメラは発売前の新機種で、祖父
の会社の取引先が打ち合わせついでに新商品紹介として持参したものだった。
機械に弱い祖父は、この手の品を全て、孫である越智に回すようにしていた。
「いいんじゃないかな。小さくて使いやすいし、真っ暗な部屋でも自動的に明
るく撮れるんだって。便利な機能だよね」
「そうか。使いやすいのならそのように伝えておこう。毎回お前がモニターに
なってくれるんで助かるよ。ワシはそういうの、さっぱりだからな」
「昨夜、ちょっと試し撮りしてみたんだ。少し失敗したけど、想像以上に綺麗
に撮れてたんでびっくりした。今、丁度その動画を編集してるところなんだ。
一段落したら下に行くから、もう少し待っててよ」
「待つのは一向に構わん。ところで康介、今日で進藤君の指導碁も最後だった
が、お前、淋しくないか」
「──何だよ、突然」
「なんだかんだ言って、お前、気に入っているんだろう?進藤君の事」
「ヘンなおじいちゃん。…後で行くから先に準備しててよ。進藤の事は別にな
んとも思ってないよ。頼めばまた、家に来てくれるしね」
越智はそう言い切ると、薄笑いを浮かべながら祖父の前で扉を閉めた。
階下へと移動する祖父のスリッパの音が完全に遠ざかると、越智は再びパソコ
ンの前に座り、先程編集し終えたばかりの映像を再生すべくマウスを握った。
越智の予想に反して、昨夜は電気を消さなかった。このカメラの特徴であるナ
イトビューとやらの性能を確かめられなかったのは残念だが、ヒカルのおかげ
でいい絵が撮れた。
欲をいえばアングルの悪さと、撮影時間の短さ──説明書を読む時間がなくて
LPモードにし忘れた事と、カメラをちゃんとした場所に設置出来なかった事
だけが悔やまれる。それ故、越智は椅子から離れる事が出来なかった。
再生された映像。そこに映っている、ヒカルの奔放に感じている様は、誰が見
ても同意の上の行為に酔う、淫らな堕天使だ。
さらに傑作なのは、ヒカル自身が積極的に動いていたという事実だろう。ビデ
オカメラは何もかも、忠実に記録してくれている。
「これで戻ってくるかな」
餌の準備は出来た。ヒカルはうまく食いついてくれるだろうか。
──もしダメだったら…その時は……。
越智は動画の保存先をCD−Rにすると、焼き終わりを見届けることなく、祖
父の相手をする為にこの部屋を出て行った。
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アキラとの記憶もまだ生々しく残る月曜日、ヒカルはまだよく状況を飲み込め
ていない母親を引き連れて、近所の携帯ショップを何ヶ所も見て廻った。
「一体何だっていうの!急に携帯が欲しいだなんて」
当然何事かと訝しがる母親を、言葉で上手に納得させる術を持たないヒカルは、
「これから先、必要なんだってば!」
の一点張りで、とうとうその日のうちに某有名店と契約まで終えてしまった。
契約者は母親だが、支払いはもちろんヒカル。電話代を引き落とす口座の名義
もヒカルにしてある。最新モデルだと二、三万円はするのだが、ヒカルが選ん
だ機種は少し前の折り畳み式のタイプだったので、覚悟していたほどの出費で
はなかった。
家に戻ると、ヒカルは早速アキラの携帯に電話を入れた。店員の話によると、
電話だけならすぐにかけてもOKだが、“メール”が使えるようになるのは明日
の午前9時過ぎとのことだった。なんとかモードも同じだと言っていた。
まだ“メール”の概念すらよく頭に入っていないヒカルにとっては、店員の説
明など馬の耳に念仏でしかない。正直、カタカナ語は全て理解不可能だった。
「メールだのなんだのは、明日和谷に聞くことにして、それより塔矢だよ……
なんで出ないんだ?」
昨日、すぐ会えると言い残したクセに、いざ連絡を取ろうとすると捕まらない。
「ちぇっ。誰の為に携帯買ったと思ってんだ、バカ」
ヒカルは口を尖らせる。そのまま電源を切り、シルバーに光る真新しい携帯を
ベッドの上へ放り投げた。
その後、数回掛けてみたが、結局アキラには繋がらなかった。
釈然としないまま出かけた翌日、ヒカルは棋院で和谷に会うなりご自慢の携帯
を披露した。
「へへーん、買ったばっかしだぜ」
「どれどれ」
和谷はヒカルから携帯を受け取ると、しばらく指でいろいろいじっていたが、
「なんだよ、もう誰かに電話したんだな」
と驚きの声を上げた。
「え、そんなこともわかんの?」
「…頼むから説明書くらい読め…」
狐につままれたような表情のヒカルを見て、こいつには基本的なことから教えて
やらないといけないのか、と和谷は小さく肩を落とす。
「なぁ、それよりメールのやり方教えてくれよ」
「そしたら、まずはメールアドレス決めなきゃな。お前の事だからパスワードの
設定もしてないんだろーから」
和谷はあっさりと購入時のままの簡単なパスワードを入力し、アドレス設定画面
にしてやると、ヒカルに携帯を返しながら説明した。
「難しい事何にも考えずに英数字を入力しろ。出来ればアドレス見ただけでお前
だってわかる方が望ましいけど、名前と誕生日くっつけたような単純なのじゃ
迷惑メールわんさかくるし」
難しく考えず、複雑な、それでいて自分だとわかるような英数字を入力…どこか
矛盾しているような気もするが、ヒカルは考えに考え抜き、自分の名前と誕生日
の間にハイフンと、大切な名前“sai”を組み込んだ。
こんなので本当にメールとやらが出来るのだろうか。
ヒカルは少々不安げに和谷を見た。
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