日記 56 - 60
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慌ててTシャツをかぶるヒカルを横目で見ながら、アキラは、風鈴をカーテンレールに
結びつけた。風にあわせて、硬質なそれでいて優しい音色が流れる。愛嬌のある金魚と、
その澄んだ音のアンバランスがおかしかった。でも、それを選んだのが、如何にもヒカルらしくて、
何だか微笑ましかった。
アキラは、目を閉じて、音に聞き入っていた。そのアキラに、ヒカルが、後ろから声をかけた。
「なあ…そんなところにつるしたら、カーテン閉められないぜ?」
「いいんだ…ちょっとどんな感じか見たかったんだ…後で、フックか何か買ってくるよ… 」
外に出ると、太陽の光が二人を容赦なく射した。五分も歩かないうちに、汗が全身に、吹き出した。
「あちぃ――――!」
「本当だね…」
眩しい日差しに、自然と顔が蹙め面になる。セミの鳴く声が、その暑さに拍車をかけている。
「なあ…何食べる?」
ヒカルがアキラに聞いてきた。アキラの目を覗き込むように、身体を屈めている。大きな
瞳に自分の顔が映っていた。
「キミは?夏の風物、かき氷でも食べる?」
アキラはからかい半分に、問い返した。
「えぇ…!?いくらオレでも、空きっ腹にかき氷はちょっと…」
真剣に答えるヒカルが可愛くて、往来なのに抱きしめたくなった。
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「ひゃー涼しい!」
聞き覚えのある声が、入り口の方から聞こえた。そちらの方へ目をやると、ヒカルと
アキラが並んで入ってくるところだった。ウェイトレスが、座席に二人を案内する。
和谷は、見つからないように、身体を縮めた。メニューで顔を隠して、様子を窺う。
――――――どうして、いつもいつも自分はこんなところを見てしまうんだ!!
二人が気づかないように、身体を縮こまらせて、息を殺して、どうして……!?
どうして、自分が隠れなければいけないのだろう……!
二人が自分に気づかず、座席に着いたのを見て、ホッとした。それなのに…。
「進藤?塔矢君も…」
手洗いに立っていた伊角が席に戻ってきたときに、二人を見つけてしまった。その声に、
ヒカルがこちらの方を見た。
「あっ!伊角さん…和谷も…」
ヒカルがいつもの人懐こい笑顔を浮かべて、自分たちの方へやってくる。アキラも後に
続いた。
頭がくらくらした。どうして、そんな顔で笑うんだよ!顔が熱い。それを隠すために、
メニューを見る振りをして、顔を伏せた。そんな自分の首筋にちりちりと視線が突き刺さる。
アキラが見ているのだと、直感的に感じた。
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「なあ、一緒してもいい?」
ヒカルはそう言うと、返事を聞く前に、ちゃっかり和谷の隣に陣取った。アキラは、
お辞儀をして、それから、伊角の隣に座った。
向かいに同士に座った二人が、額を押しつけあうようにして、メニューを覗き込む。
「な、塔矢。何食べる?」
「ボクは野菜サンドにしておくよ。」
「えー!少ねえよ!朝、食ってねえんだぞ。食わなきゃ倒れるぞ!」
二人の会話に伊角が口を挟んだ。
「何だ、二人とも朝飯食ってないのか?」
その言葉に、ヒカルは赤くなって、口をもごもごさせた。代わりにアキラが笑って答えた。
「ええ…昨日、進藤が家に泊まったんですけど…朝なかなか起きなくて…」
「へえ…でも、この前はえらく早起きだったぜ。朝、起きたら進藤がいなくて、
みんなびっくりしたもんな。」
伊角とアキラがヒカルをダシにして、和やかに会話を続けた。和谷は、その会話に加わることが
出来なかった。アキラがさっき言った言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。
―――――進藤が、塔矢のところに泊まった……?
二人がただの友人でないことを、和谷は知っている。もしかして……。
和谷は、二人にからかわれて、むくれているヒカルをまじまじと見てしまった。
「もう!二人とも、うるせえよ!」
ヒカルが伊角達に拳を上げた時、Tシャツの襟刳りから、チラリと赤いものが見えた。
すぐに隠れてしまったが、和谷の目の奥に、その赤い印が焼き付いた。
また、視線を感じる。前を向くと、やはり、アキラが自分を見ていた。冷たい目だと
思った。自分が、石ころの様に思えてくる。表面上は、伊角と当たり障りのない会話を
続けながら、目では和谷を牽制していた。
カッと頭に血が上った。
こいつは、進藤は自分のものだと言っている。進藤に近づくなと言っているんだ!
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先に注文を済ませていた伊角と和谷の前に置かれた皿を、ヒカルが羨ましそうに見た。
「いいなーオレ、腹へって死にそう…」
「キミが早く起きないからだよ。」
「起こしてくれればいいじゃん!」
二人が言い合いを始めた。こんなアキラを、伊角も和谷も見たことがない。いつも、棋院で
見るアキラは、毅然としていて簡単に人を寄せ付けない雰囲気が漂っている。
だが、今ここにいるアキラは、どこにでもいる普通の少年の様に見えた。それだけに、
如何にアキラがヒカルに気を許しているのかが、和谷にもわかった。痴話喧嘩ともとれる
二人の言い争いを、和谷はもう見ていたくなかった。
「ほら、進藤。これつまんでもいいぞ。」
皿に盛られたフライドポテトを差し出す。ヒカルの顔がパッと明るくなった。
「いいの?和谷、さんきゅ!」
アキラの機嫌を損ねることがわかっていて、敢えてやった。
――――ざまあみろ!
そう思ってアキラを見た。
しかし、アキラは、嬉しそうにポテトを頬張るヒカルを、幸せそうに見つめていた。
これ以上ないくらい優しい目で、愛おしいものを……
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ファミレスを出て、和谷達と別れた後、また、二人きりになった。
「なあ…今日も泊まっていい?」
ヒカルがアキラに言った。
「ボクは大歓迎だけど…家の人に怒られないかな?」
「う…ん…でも、一緒にいたい…お母さんには後で電話しとくから…」
ヒカルに甘えるようにねだられては、それに対抗する手段はアキラにはない。自分だって、
一秒でも長くヒカルといたいのだ。
「わかった…いいよ…ボクも一緒にいたい…」
ヒカルは、辺りをきょろきょろと見ると、アキラの手にそっと触れた。
「あ…これ、おもしれえ。これ…何だ?」
アキラとヒカルは、風鈴を吊すためのフックを買うために、雑貨店に入った。アキラが、
目的のものを買っている間に、ヒカルは他のフロアを珍しそうに見て回っていた。
奇麗に飾られたディスプレイをあの大きな目で覗き込んだり、見慣れないものを不思議
そうに手に取ったりしていた。
夏ということもあって、店の中は涼しげな装飾がされている。そこにある商品も、
夏そのものと言ったものばかりだ。それが、広いフロアに所狭しと並べられている。
うちわ、浴衣、花火、金魚鉢……大きな水槽に熱帯魚が泳いでいるものもある。
もっともそれは売り物ではなく、ディスプレイの一つだった。
「ごめん。待たせて…」
アキラがヒカルのもとに駆け寄った時、唐突にヒカルが言った。
「なあ…緒方先生のとこに行かねえ?」
本当に、ヒカルはいつだって、突然こんなことを言い出すのだから…アキラは溜息を
ついた。おそらく、この水槽を見ていて、急に思いついたのだろう。あそこには、大きな
水槽があるから…。
「だって、おマエ、先生ときちんと仲直りできてねえだろ?」
「ちゃんと謝ったよ。」
まだ…ぎこちないけど…。少しずつ、以前のようになっているのだから…。
「それに、行くなら、電話で都合を伺ってからでないと…」
アキラの言葉を皆まで言わせず、ヒカルはもうアキラの腕を引いて歩き出していた。
「いいよ。そんなの…居なかったら帰ればいいんだから。」
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