落日 56 - 60
(56)
藤原の娘を愛しく思っていたわけではない。愛しいという想いなど知らぬ。ただ、自分の一存のみ
であの囲碁指南役を退けたから、その事で傾いてしまった天秤を元に戻すために、彼女を女御に
取り立て、いずれ子を産めば中宮となるのだろう。
どこか彼に似た面差しのある、その女が傍らから見上げている。
「つい先程まで、新しい女房と碁を打っていたところでしたのよ。
中々の上手のもので、よろしければ主上も一局いかが?」
「いや、碁はよい。」
「あら……確かにわたくしでは主上の相手は務まりませんけれど、あの者でしたら…」
「いや、よい。碁はもう、飽きた。」
「まあ。」
と、彼女は嘆息する。
「以前はあんなに夢中であられましたのに。」
そんな女御の言葉を他人事のように聞き流す。
彼でなければつまらぬ。
いや、碁に夢中だったのではない。彼に、夢中だっただけだ。
美しく優美な青年。白い指先から繰り出される一手。高らかな音をたてて打ち据えられる白と黒の
石。彼との対局は会話だった。自分の置いた石に彼が応え、その石にまた自分が応える。そうして
十九路の小さな都の上に築き上げられる世界。相手が彼であってこそ、その遊びに夢中になった。
その彼なくして、碁など、何が面白いだろう。
きっともう碁を打つ事は無いだろう。そんな気がする。
自分が碁を打たなくなって、残されたあの囲碁指南役はどうするだろう。
どうもしまい。彼は碁を打つ事よりも「帝の囲碁指南役」という名の方が大事なのだから。今更それ
を取り下げる気も無いから、あの者もそれで満足だろう。自分が碁なぞ打たずとも、内裏の中には
何の支障も無い。所詮はただの遊びだ。
(57)
この都において、自分こそが中心たる太陽であることを知っている。
己の望みとは何の関わりもなく、内裏において、都において、この国において、自分こそが天を統
べる日で在った。望む前に全てを与えられ、この世にあるもの全ては己のために在った。それが
天子であり帝たる自分のさだめであり、またつとめでもあった。
何かを望むまでもなく全てを手中にしていた己が初めて望んだ人はけれど己を拒み、それ故に
ここから消えていった。ここに在るものは全て帝たる自分のためのものだから、その自分を拒む
ものはここに在る事はできない。彼はそれを知っていたから、自らここから消えていった。
全てを与えられると言う事はけれど全てを担うと言う事でもあり、だがそれを嘆いてもどうにもな
るまい。自分はそう生まれついてしまったのだから。
帝の子として生れつき、全ての中心たる日輪たることを約束され、また要求され、そして今、その
ようにしてここに在る。それ以外の在りようを自分は知らない。
けれど、日はまた没するものだ。
「何を笑っておられますの?」
女の声で、現世に引き戻される。
笑っていたのか?自分は。いつか己が没する時の事を思って?
それもよい。
己が没してもまた次の陽が昇り、都は変わらずに日々の営みを続けるのだろう。
ひとも、ときも、皆、儚い。
今日の日も、また、沈み行く前に最期の力を振り絞って鮮やかな夕映えを見せている。あれは
己が没する前の最期の輝きだ。
沈みきっても尚、己を忘れてくれるなと言いたげに残照は薄紅く都を染め上げている。けれど
それもやがては力尽き、都は黄昏の中に沈んでいき、そして日の力が完全に没した時、都は
闇に包まれる。
月のないこの夜、ただ星だけがほんの小さな煌きをもって闇を恐れる者どもを救うのだろう。
(58)
残照は既に力なく、辺りは夕闇に包まれようとしていた。
今日の日の、夕映えの不吉なまでの赤さに人々は眉をひそめ、暗く赤く残る最後の光がその力
を失い、常なれば厭うはずの夜闇が訪れてやっと彼らは息をついた。
それでも月のない夜は人々を不安にさせる。
その為に、今夜にでもここを発とうとしていた彼は強引に引き止められた。
更に、湿り気を帯びた風が野分きの訪れを予感させ、今日こそは何があろうと旅立とうと思って
いたはずの彼を、この地へ引きとどめた。月の無い嵐の晩は旅立ちには危険すぎる。捨て切る
ことのできない理性が、それでも早く出立したいと叫ぶ感情を抑え、彼は不安な面持ちで空を見
上げながら、後ろ髪を引かれる思いで屋内へと戻った。
都から遠く離れた東国で、既に儚くなってしまったであろう人を思う。そして残された少年を思う。
彼を思うとざわりと胸が波立つ。そうしてあの日からずっと己を捕らえている焦燥感にまたもや、
身が焼け焦げるような苛立ちを感じる。
あの日、あの人とすれ違ったすぐ後にこちらへ下るようにと命ぜられた。
東国に人を喰らう鬼が出る。先に遣わした陰陽師はけれど逆に鬼に魅入られ、自らの身を鬼に
捧げ、彼の身を喰ってその鬼の力は益々強大になり、土地の者どもは夜ともなればただひたすら
怯えて家に閉じこもるしかなく、そして夜も更ければ、鬼は野を、里を流離い、恐ろしい、哀しい声
が、哀切な唄を吟じるのだという。
それを鎮められるのは、例え年は若くとも、今、都で最も力があると言われる賀茂明その人しかい
ない、と、言われて断ることなどできなかった。
唐突なその命に、「彼」と交友の深かった自分が、図って都から遠ざけらようとするのだろうかとも
疑った。だが勅命とあれば致し方ない。
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今は祓ってしまった鬼の、魂を裂くような吟が耳について離れない。
哀しい存在だった。
人の心の闇が凝縮し、それに押しつぶされて喰らわれた時、ヒトはオニと成る。陰陽師としてその
ような存在と相対したことは無かったではないが、けれどそれでもあのように哀しい存在を知らな
かった。
かつて愛した、そして自分を裏切った愛しい男を呪い、捨てられた自分自身を呪い、世を呪い、全
てを呪い、男の血をひいた幼な子を喰らい、ついには子を攫っては喰らう鬼と成り果てた女。
ひとは誰でもあのような鬼に成り得るのだろうか。
男が女を騙したのではない。裏切ったのではない。女は男の在りようを理解できず、男もまた、己
を曲げて女に寄り添うことはできなかった。
幼い吾子の柔らかな皮膚を切り裂き、血肉を啜りながら鳴く鬼の、哀しい、哀しい、哀しい、という
慟哭の声が、闇に吸い込まれながらも木霊していた。哀しく恐ろしいはずなのに、それでも背筋が
震えるほどに美しく、惹き込まれるような声だった。
その美しい悲鳴が未だ耳に残るような気がする。
女の、男への想いが妄執であったなら、男の、自らの業にかける心も妄執であったのだろう。
男が最後に手掛けた美しい蒔絵の手鏡は、けれど完成される事はなく、妄執を焼き払う炎となって
彼らを包んだ。天にも届くほどの火柱が、鬼を包み、鏡を包み、闇夜を昼に変えるほどの眩さで燃
え上がり、次の瞬間にはぱっと消え去った。
やがて訪れた朝の光の下、土も草も何一つ焼けた後など残さぬその場に、黒く焦げた丸い鏡が、
それだけが彼らの存在した証であるかのように、遺されていた。
(60)
日の落ちる前にここにやっと辿り着いたという都人が、近頃の都の噂話をしている。
「帝の囲碁指南役が代わられたという話を聞きましたが…」
何気ないふうを装ってそのように話を向けてみたが、彼はそのような話は知らぬと言った。
「そうですか。」
噂にもならぬほどの事だったろうか。いや、宮中に参内するような貴族でなければそこまで細かな
事など知らぬのも当然なのかもしれない。
最後に見たあの人の、全てを悟りきったような静かな笑顔を思い出す。
都からここを目指して歩いている途中で、不意に足を止めてしまった事があった。何かもわからず、
ただ心がざわめいて、ここを離れてはいけない、戻らなければならないという衝動に駆られた。警護
の者さえいなければ、自分は勅命など投げ捨てて都を目指して走り出していただろう。
けれどそれは許されず、今、自分はここにこうして一人いる。
きっとその時に逝ってしまったのであろう人を思い、そしてまた、残された人を思う。
彼はどうしているだろう。最後に会えたのだろうか。会えなければ会えなかった事に、会ってしまえば
引き止めることもできなかった事に、きっと彼は苦しんでいる。
自分は何もできずとも、傍にいたかった。共に苦しみを分かち合いたかった。
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