再生 56 - 60
(56)
いつの間に、緒方さんの家を出たのだろうか…?
まったく憶えていなかった。
頭の中が真っ白で…。
「ボクは――バカだ―――!」
傷ついていたのは自分ではない。
アキラが、緒方とヒカルを傷つけたのだ。
『心配しなくていい。ただ、ほんの少し誰かに側にいて欲しかっただけだ…』
緒方の寂しげな姿が頭から離れない。
頭がズキズキする。
涙が出そうで目の奥が熱い。
胸が苦しくて堪らない―――――――。
「ごめん……ごめんなさい…」
謝罪の言葉は、誰に向けられたものだろう…。
ヒカルに会いたい――――心の底から、そう願った。
(57)
「遅いな――――」
ヒカルは、ドアの前に座り込んだ。
鍵は返してしまったので、外で待つしかない。
一時間でも二時間でも………一晩中でも待つつもりだ。
顔を見たら、言いたいことがたくさんある。
『ありがとう』『ごめん』『大好き』
それから―――――
足音が聞こえた。
顔を上げると、アキラがびっくりした顔をして立っていた。
信じられない物を見るような目つきだ。
何度も瞬きして、ヒカルを見ている。
「おかえり」
ヒカルは、立ち上がって笑いかけた。
「ただいま」
アキラが、今にも泣きそうな笑顔で応えた。
その笑顔を見たとたん、ヒカルは胸が、キュッと痛くなった。
どんなにアキラに会いたかったか、あらためて思い知った。
―――――――塔矢……オレ…やっぱり塔矢のことが…大好きだよ…
ヒカルも、何だか泣きたい気持ちになった。
アキラの手が、自分の方に伸びてきた。
ヒカルはじっとして、アキラの指先が自分にふれるのを待った。
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アキラの手がヒカルの頬にふれた。
存在を確かめるように、顔や肩や手をなぞった。
目の前にヒカルが――――零れるような笑顔のヒカルが―――いる。
「どうして?」
ここにいるんだ――――?
もう二度と戻ってこないと思っていた。
「緒方先生が電話くれた……今日、会うって……」
「そうか……」
緒方にもヒカルにも心配かけていたんだ。ずっと……。
「先生と仲直りできた?」
ヒカルの質問に、アキラは項垂れて首を振った。
頭が混乱して、それどころではなかった。
「でも…するよ…ちゃんと謝る…だから……」
大丈夫。心配しないで―――――
何も言わず、ヒカルはアキラを抱きしめた。
いつもアキラがするように、背中を撫でてくれる。
お互いの心臓の鼓動が重なった。
ドキンドキン――――この鼓動はどちらのものか。
何だか、息苦しい。
「進藤――――」
アキラはヒカルに呼びかけた。でも、いいたい言葉が見つからない。
想いが募るばかりで、うまく言葉が出てこない。
好き――――その一言だけしか浮かばなかった。
「好き」だけでは、この気持ちはヒカルには伝わらないのではないか。
もどかしい―――――アキラは、言葉を続けることが出来なかった。
黙ったままのアキラの肩口に、ヒカルが額を押しつけた。
「塔矢……もう一度…あの鍵…欲しい…」
ヒカルが、恥ずかしそうに囁いた。
ダメかな―――?と、小さな呟きが聞こえた。
目の端に映ったヒカルの細い首筋は、赤く染まっていた。
―――――進藤…好きだ…
アキラは、心の中で何度も繰り返した。
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ヒカルが、意を決して言った告白だ。
なのに、アキラは返事をくれない。
「あっ」とヒカルは思い出した。
「塔矢、オレ、先生の鍵は返したからな!」
ヒカルは、アキラがそのことを気にしているのだと思った。
ヒカルからは、アキラの顔が見えない。
黙っていると不安になる。
「塔矢ぁ…」
情けない声。
ヒカルは、アキラに言えない秘密を持っている。
それを緒方が話したとは思えないが…。
沈黙が重苦しい。
「ダメだ」と言う拒否の言葉でもいいから、何か言ってよ。塔矢―――
と、その時、アキラがヒカルの手に何かを握らせた。
この前、ヒカルがアキラにしたように……。
でも、あの時とは、状況が全然違う。
嬉しい――――嬉しくて堪らない。
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「ありがとう――――」
ヒカルが幸せそうな笑顔をアキラに向ける。
再び手元に戻ってきた鍵を、大事そうに握りしめていた。
ヒカルはその鍵をアキラの部屋のドアに差した。
振り返って、もう一度アキラに笑いかけた。
カチリ―――鍵の開く音が、アキラの耳に届いた。
「オレ、塔矢のこと……ぁぃ……大好きだよ―」
背中を向けたまま、ヒカルが小さな小さな声で呟くのが聞こえた。
聞き取れなかった部分を、もう一度聞きたい。
アキラがそう言うと、耳まで赤くなったヒカルがいきなり振り向いた。
目が吊り上がって、口はへの字に結ばれている。
進藤…怒っている……?
「――――愛――してるって言ったんだよ!」
そう怒鳴って、ヒカルは部屋の中に駆け込んで行った。
アキラは呆然としてしまった。
少しずつ言葉の意味を理解し始める。アキラの胸に喜びがこみ上げてくる。
どうも照れくさいことを、何度も、言わせてしまったらしい。
「ごめん。進藤。」
部屋の奥に呼びかけた。
返事は返ってこない。ヒカルは拗ねてしまったらしい。
笑いながら、アキラも続いて部屋に入った。
アキラはヒカルと同じ言葉を、拗ねている背中に向かって言った。
ヒカルが振り向いて笑うまで、何度も何度も繰り返した。
<終>
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