失着点・展界編 56 - 60
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背中にかかる温かいシャワーが、心地よかった。
まだ夢見心地で足元がおぼつかないヒカルを支えるようにして立たせ、
緒方がヒカルの体を流していた。
「…気持ち良かったか?」
緒方の問いかけをぼんやりしていたヒカルはコクンと素直に頷き、ハッと
なって真っ赤になった。緒方がクスッと笑う。
「正直だな。」
「…でも、緒方センセイは、まだ…」
ヒカルは遠慮がちに視線を下に向ける。先刻迄の程の凶悪さ(?)はなかった
が、それなりの質量を維持したままの緒方のその部分が見える。
ベッドの上で、緒方が急速に動きだして間もなくヒカルは弾けた。
緒方は迷ったようだった。まだ、緒方が到達するには間がなさ過ぎた。
だが、ヒカル自身からは手が離されたが、体の深部で動き続けられる事は
ヒカルにとって酷であった。動きを緩めてもなお塞がれた唇を振払って
全身を痙攣させ半狂乱のように喘ぎ続けるヒカルが痛々しくて緒方は
中断したのだった。
「子供はそんなことを気にしなくていいんだ。」
緒方はヒカルのほっぺたをきゅっと摘んだ。
「…どーせ子供だよ。」
ヒカルは口を尖らせてそっぽを向く。ただ一つヒカルが気になる事は、頂点に
達した直後、頭が真っ白になって自分が何か口走ってしまったような気がする
事だった。
…と、う、や、…と。
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緒方にも聞こえたはずだった。だがその事について緒方は何も触れない。
「進藤」
ふいに緒方に呼びかけられ、ヒカルはハッとして顔を上げる。
「…SEXは怖いものじゃない。これは単なる手段だ。」
シャワーの湯が伝い落ちるヒカルの頬を優しく撫でながら緒方は話し掛ける。
「…たかがこんなものの為に、お前が傷付いたり苦しんだりする必要は
全くない。」
ヒカルは驚いたように目を見開いて緒方を見た。
「…お前の本当に大切な相手の人も、きっと分かってくれる…。」
頬を伝う熱いものが、シャワーのお湯なのか、そうでないものなのかは
分からなかったが、ヒカルは小さくコクンと頷いた。
「…緒方さん、キスしてよ。…優しいやつ。」
真直ぐ目を見て見つめて来るヒカルに、緒方は軽くキスをする。
「…キスを強請るのが上手くなったな…。大体、オレはいつでも優しいぞ。」
「だって…、…あんなことしたじゃん…。…オレ、死ぬかと思った。」
「…興奮しただろ。実はあの時冷静な振りして、オレもかなり興奮してた。
それくらいいいだろう。…傷の治療代だ。」
「…ひでエ医者…。」
ムスッとした表情になったヒカルの唇に緒方はもう一度優しくキスをする。
お互いクスッと笑いあう。そして緒方はヒカルを抱き締める。
「…今夜の事も忘れるんだ。いいな、…進藤…。」
返事をする代わりにヒカルも緒方の首に抱き着いた。肩を震わせてヒカルは
何度も頷き、おそらくもう二度と触れ合う事のない大きな胸の温かさを
自分の体に刻み込んだ。
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ヒカルはその夜は緒方の部屋に泊まった。
「えー、ベッド広いんだからいいじゃん。一緒に寝ようよ。」
長椅子で寝ようとする緒方にヒカルは唇を尖らす。
「…オレを過大評価するな。」
「?、カダイヒョウカってなに?」
「…もういい。寝ろ。」
次の日の午前中、緒方が寝過ごし、二人で少し遅い朝食を近くのコーヒー
ショップで取り、車で自宅近くの通りまで送ってもらった。
車を降りてしまう事が、ヒカルは名残惜しかった。
「…進藤、」
シートベルトを外してもなかなか動こうとしないヒカルに緒方は声を掛ける。
「強くなれよ。」
それが囲碁の事なのか、精神的な事なのかはよく分からなかった。
「おまえの相手は、相当手強いぞ。…負けるなよ。」
「…うん。」
ヒカルは頷くと周囲に人通りがないのを見て素早く緒方の唇を軽く吸い、
車を降りた。閑静な住宅街に不釣り合いなエンジン音を遠慮がちに立てて、
緒方の車は消えて行った。
「…さてと、母さんにはなんて言い訳しようかな…。」
そう独り言を言いながらも、ヒカルは気持ちが浮き立っていた。
アキラは今日の夕方帰って来る。空港に行こうか、どうしようか。
「…進藤!」
ふいに声を掛けられ、ヒカルがびっくりして振り返ると伊角が立っていた。
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「お前の家に寄ろうと思っていたんだよ。…昨日は悪かった。今日は二人で
またどっかに打ちに行かないか?」
何も気付いていない様子の伊角にヒカルはホッとし家に向かって歩き出した。
「…悪い、今日はちょっと…。明日の午後からなら行くよ。」
その時、ちょうど宅配便の車がヒカルの自宅前に止まり、応対に出たヒカルの
母親がヒカルを見るなり大声を上げた。
「ヒカル!!あなたどこに行っていたのっっ!!」
その剣幕にヒカルも伊角も真っ青になり、宅配便の兄ちゃんも品物の受け取り
サインをもらいそそくさと退散した。
「ご、…ごめんなさい、ちょっと、友達ん家に…」
「電話の一本くらい入れなさいって何度言ったらわかるの!!」
「すみませんでした!…オレが一緒にいながら、つい、囲碁の話に夢中に
なってしまって…。…申し訳有りません…!」
伊角がヒカルの母親に深く頭を下げた。ヒカルは「えっ?」と思った。
伊角は母親のお気に入りなだけに、伊角の殊勝な態度の目でじっと
見つめられてヒカルの母親は少し気を収めたようだった。
「伊角さんが一緒なら…、でもね、ヒカル、今度は絶対気をつけてね。」
「わ、わかったってば。本当にごめんなさい。」
ヒカルは伊角に小さく手を合わせ、まだぶつぶつ不満を口にする母親に次いで
家に入ろうとした。そのヒカルに伊角が声を掛けて来た。
「…進藤、それじゃあ、明日な。」
「う、うん。」
「…約束、…守ってくれるよな、進藤…。」
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飛行機は予定通りに到着し、アキラはベルトの上を流れる自分の荷物を取ると
他の棋院の関係者の人達と共に空港の出口に向かった。帰りはもう少し他を
見て回りたいと言う倉田とは別行動となった。本場の中華料理を堪能するのが
目的らしかったが。
母親と芦原が迎えに来てくれていた。2人が棋院の人達と挨拶を交わす中、
アキラは空港内を見回した。
「アキラ君、誰か探しているのかい?」
芦原がアキラの手から荷物を奪いながら尋ねる。
「あ、いえ…。」
特に約束をした訳じゃ無い。空港でなくても、あそこへ行けば、ヒカルと
ゆっくり話ができる。自然、アキラの歩調は速くなった。
自宅のベッドの上で、ヒカルは体を丸めて横になっていた。
伊角の言葉が、心に重くのしかかっていた。
携帯電話が鳴る。「塔矢アキラ」という登録名と数字が表示されている。
しばらく鳴り続けて止まる。これで3度目だった。
声を聞けば、我慢出来なくなる。会えば歯止めが効かなくなる。アキラは、
ヒカルの体に微かに残る他の誰かが残した痕跡を見逃さないだろう。
その事はちゃんと話すつもりではいた。問題は、和谷の方だ。
伊角はあえてヒカルにアキラと会わないようプレッシャーを与えに来たのだ。
もしヒカルがアキラに会い、和谷がそれを知れば再び暴走するかもしれないし
大手合いに来ないかも知れない。伊角はそれを恐れている。
でも、せめて声が聞きたい。少し話をしておくべきだろう。ようやくそういう
決意をした時、4度目の着信音が鳴った。アキラからのメールだった。
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