クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 56 - 64
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「川に沿って行けば分かるって、云ってたな・・・」
童に云われたとおり夕暮れの山中を馬で分け入り、もうすっかり暗くなった頃――
前方に朧気な灯りが見えた。
いや、灯りではない。
近づいてみると、それは火のように赤く美しい、夢のような紅葉の群れだった。
光が馬から下りるとサラサラと清流の音がかそけく響く中、
赤い紅葉がひらりと一枚、遠い都からなずみ来た光を労うように舞い降りる。
それを手に取り、一瞬ここに来た目的も忘れて清らかな光景に見入った。
「・・・すげ・・・賀茂みてェに綺麗だ・・・」
水のように炎のように美しい想い人の幻が、夜の中に浮かんで光の胸を熱くした。
その時、
不意にガサッと枯葉を踏み分ける音がした。
「そこに居るのは誰や!」
びくりとして振り向くと、
そこには背の高い、白銀色の髪をした、水干姿の若い男が立っていた。
「あ・・・っオレ、オレは――」
美しい光景に見惚れて気が緩んでいた所を不意に見咎められて、光は焦った。
随分若いし、聖と云うより何だか普通の町人のような格好だが、
もしやこの男が件の聖なのだろうか?
白銀の髪の男は、切れ長の目で光を睨み据えながら厳しく続けた。
「この辺りは立ち入り禁止ゆうことになっとるんや!
この山を越えるより迂回したほうが次の国へ行くには早いから、
商人も官馬もここまでは登って来ォへん。アンタ、見たとこ都人みたいやけど
どないな目的でこんな山の中まで来てん。返答次第では、この場で――」
云いながら男の目に、ぎらぎらと人のものでないような光が宿り始めた。
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――なんだ、こいつ!
全身が総毛立って光は思わず後ろに飛び退き、刀の柄に手をかけた。
京の都で何度か、人を襲う野犬の類をやむなく斬ったことがある。
それらが恐ろしい声で咆哮しながら跳びかかってくる直前の目の光――
憎しみでもない、怒りでもない、ただ己の縄張りを侵し己を害そうとする敵への
本能的な殺意に似たものを、光は男の目の中に見た。
――これ、やめんかいっ!
突然、天から降ってくるような怒声が辺りに響いた。
「うぁっ」
「うぉっ」
光と男は同時に声を上げ身を竦ませた。
男は直前までの殺気もどこへやら、情けない顔で空を見上げきょろきょろとしている。
「お、お師匠様」
天から降ってくるような声は、幾分諭すような調子になって続けた。
――アカンで、儂の弟子になったら、もう短気起こさん云う約束やったろが。
こないな時間になってから危険を押して夜の山を登ってきたんや、何か訳あるんやろ。
話くらい聞いたろやないか、庵に来てもらい。
「は、はいっ!・・・おい、おまえ。そういうことや。
お師匠様の庵まで案内したるさかい、ついて来ーや」
男は少し憮然とした表情で光を振り返った。
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「あ、ああ。そりゃ助かるけど・・・」
急な展開とどこから響いてきたのか分からない不思議な声に面食らって、
光はどぎまぎしていた。
「助かるけど、なんや!ぜーたくゆうとると案内したらへんで!
これだから都の人間は勿体ぶっててやらしい云うんやー」
噛み付くように男が云った。
その様子が意外と子供っぽく見えて、顔立ちは大人びているが
もしかしたら己や明と同じくらいの年なのかもしれないと光は思った。
「いや、その・・・そのお師匠さんって、オレの探してる人なのかなと思って。
オレが会いに来たのは、吉川上人っていう・・・」
「しっ師匠は師匠やー!文句云わんとさっさとついて来ーや!置いてくで!」
言い捨てると、少し大人びて見える白銀の髪の少年はくるりと背を向け、
ガサガサと枯葉を踏み分けて歩き出した。
「あっ、待っ・・・」
光が声をかけても、少年が足を止める気配はない。
少し不安は残るが、今夜はもうこの少年について行くしかなさそうだった。
――だがそれならその前に一言、
「な、なあちょっと待ってくれよ!おいっ!」
「・・・なーんや」
うるさそうに少年が振り向く。
歓迎されていない雰囲気をひしひしと感じ取りながら、それでも光は云った。
「・・・ありがとう。オレ、立ち入り禁止の所に来ちまったのに、案内してくれて。
ホント、ありがとなっ!」
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礼の言葉と共に光がにぱっと笑うと、少年は目を剥いてその場に立ち竦んだ。
何かとんでもないことでも云われたように硬直して、口をぱくぱくさせている。
――あれっ。
また迷惑がられるかもという程度の予想はしていたが、
ここまでの反応が返ってくるとは思っていなかった。
「え・・・えと?・・・えへへ・・・へ」
とりあえず笑ってみた光に、少年は我に返ったように息を吸い込んで怒鳴った。
「・・・そ、そんな言葉に騙されんでーっ!都人云うのはほんま恐ろしいわ、
どいつもこいつも、・・・アンタなぁ、無駄口利かずに黙ってついて来たらええがな!」
「う、うん」
どう考えてもこの少年の反応は過剰だと思うのだが、何か事情があるのかもしれない。
今はとにかく、件の聖と会える可能性のある場所に連れて行ってもらえるなら
それで良かった。
ずんずん進んでいく少年の後を追いながら、ふと思いついて光はもう一度だけ声をかけた。
「なあっ、オレ近衛って云うんだけどさ、オマエのことは何て呼べばいい?」
「・・・シロ」
「え!?」
シロとは聖が飼っているという白犬のことではないのか。
ぎょっとして聞き返した光を面倒そうに振り返って少年は云った。
「あぁ?社って、そんな珍しい名前でもないやろ。ほんま、イヤミな都人やなぁ」
「あ、・・・ゴメン・・・」
――やしろ、とシロ、を聞き間違えたのだ。
聞こえよがしにフーッと溜め息をついて山の奥へと分け入っていく少年を、
光は慌てて追った。
夜の中でも雪のように目立つ白銀の頭髪をしるべにしながら、
例のシロもこんな色をしているのだろうかと、ふと考えた。
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案内された庵の主は吉川上人その人だった。
「まあ、座り。何もあらへんとこやけどな」
先刻の天から降ってくるような轟声からは想像もつかない
目尻の垂れた優しそうな風貌と福々しい微笑みに、光はホッと安堵した。
草葺きの庵は粗末ではあるが隅々まできちんと掃き清められ、
書物や薬籠の類や僅かな什器が整頓されて置かれている。
ごたごたと物の散らかった己が住まいに比べ、俗世を離れて修行に励む上人の
清廉な暮らし振りが窺えるようだった。
――そう云えば、賀茂の邸もこんな風にいつもきちっと片付いてたな。
物がないわけではないのに主に似てどこかそっけなく、つんと澄ましているようなあの邸。
あそこで今頃、明はどうしているのだろうか。
緒方がついているから心配はないと思うが、きちんと食事は摂ったのか。
体内の妖しにまた苦しんではいないか――
「・・・で、ここ来た理由言うんは?」
「あ、はいっ。実は・・・!」
明が見たら驚くような真面目な顔をして、光は居住まいを正した。
「うんうん、なるほど。友達のために、わざわざここまでなぁ」
福々しい微笑みで吉川上人は頷いた。
横から社が二人に湯を勧める。
そう言えば評判の「シロ」の姿をまだ見ていないが、
庵の外に繋がれていたのを見落としでもしたのだろうか。
「オレと一緒に来て、賀茂を助けてください。お願いしますっ!」
胡坐を掻いたまま、床に額がつきそうなほど深く頭を下げた。
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「せやなあ。困っとるみたいやし助けてやらんこともないけど、ただ・・・」
「ただ?」
勢い込んで光は顔を上げた。
その切羽詰まった表情を見て憐れむように眉を下げながら、上人が続けた。
「儂はな、旅の僧や。むかーし官寺に所属しとったこともあったが、
寺の中での勢力争いやら出世やら、窮屈な暮らしに嫌気がさして飛び出した。
それからはずうっと諸国を渡り歩いて、一所には留まらん。
どんな土地かて長く居ればそこに住む里人や鳥獣に愛着も湧くし、
環境に慣れて気の緩みが出る。それじゃ修行がうまいこと捗らへんよってな。
それでこの土地もそろそろ出よか思とるんやけど、
幾つか引き受けたまま、まだ片付けとらへん仕事が残っとる。
それをこの数日でやってしまわなアカンのや。せやから、都まで行っとる暇がない」
「そんな・・・!」
明日には都に戻って、明を助けてやれると思っていたのに。
だが上人には上人の都合がある。それなら精一杯こちらが出来る事をするしかない。
「だ、だったらオレに、その仕事手伝わせてください!オレ何にも知識とかはないけど、
役に立つように頑張りますから!それで――それで仕事が全部終わったら、賀茂の所に」
「ウン、まぁ、それでもええんやけどな。でもホンマはもっと早く戻ってやりたいやろ?
聞けばその友達云うんも、もう随分と消耗しとるみたいやし」
「はいっ、そりゃ・・・そうですけど。・・・じゃ、やっぱり一緒に来てもらえますか!?」
「そら無理や。せやけどな、儂やなくてもエエなら」
こちらに背を向けて鍋を炉にかけ、夕飯の支度をしていた社がぴくりと肩を動かした。
「うちの弟子、貸したってもええで。コイツは将来、儂を超える器やわ」
「えぇっ!」
「お師匠様!」
光と社が同時に声をあげた。
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法力が強いと評判の上人を求めて、ここまで来たのだ。
その弟子――弟子ならある程度修行はしているのだろうが、
見るからに穏やかで人間が出来ていそうな吉川上人に比べ
社は服装も何だか普通の町人のような水干姿だし、性格にも少し凶暴な一面がある。
こんな少年に、果たして明を救うことなど出来るのだろうか?
当惑して口籠もっている光の代わりに社が抗議した。
「な、何でそないなこと云わはるんですか!オレ、お師匠様の側から離れたないわ。
お師匠様が仕事終わらはってそん邸に行く云うならお供さしてもらいますけど、
一人になるんは嫌や。それにオレ、」
急に声が小さくなり、肩を落として社は云った。
「それにオレ・・・都人は嫌いや・・・人がたくさんいるとこに行くのも、怖い」
「怖い」などという言葉がこの少年の口から出るのは意外な気がした。
だが今社は羨ましいくらい立派なその体躯を小さく丸めて、師匠の前に項垂れている。
そんな社を前にうんうんと福々しい笑みで頷きながら、吉川上人は穏やかに説いた。
「おまえの気持ちはな、分かっとるつもりやで。せやけど儂はなぁ、こうも思うんや。
おまえはいつまでもこんな暮らし続けとったらアカン。そろそろ人と話したり、
人並みに世間と交わることも覚えていい頃やないかって」
社は泣き出す前の童のように顔を歪め、ぶんぶんと頭を振った。
「嫌や!オレはこのままずっとお師匠様と、お山で修行するんや。
人と話したり付き合ったりは本来修行には邪魔や、余計なしがらみは持たんに限る――
そう云うてお師匠様、いつも情の移らんうちに次の土地に発たらはるやないですか。
オレも人となんか付き合わんと、一生懸命修行して仏様に救ってもらう」
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「俗世のしがらみを絶って仏道に専心するんは、一つの道や。
儂にはそのやり方が合うとる。だが全てのモンにとってそれが一番いいやり方とは限らん。
なあ社、おまえを突き放そ思てこんなこと云うとるわけやない。
せやけど、俗世を捨てな辿り着けん境地もあれば、
俗世と交わることで初めて到る境地もあるのやないか。
儂にばかり付き合うてたらおまえの一番好きなことは一生でけへんし、
探し物も見つからん。おまえにずっと法衣やなく俗人のカッコさせとったんかて、
いつかお山以外の世間も知って欲しい云う、儂の願いやったんやで」
項垂れて激しく泣く社にそう説き聞かせる吉川上人の目はとても優しくて、
こんな目で己が見られていると云うことを、社に教えてやれたらいいのにと光は思った。
「エエか。お師匠様が云うたからやで?オレが喜んで行く訳とちゃうねんで!」
初対面の人間がいる前で大泣きしてしまった照れ隠しからか、社は何度も念を押した。
「ああ、それでもありがたいよ。夕飯も食わずに来てくれるなんて、
ホントは親切なんだな。ありがとな!」
「お世辞はええわ。気に入らん仕事は、とっとと行ってとっとと済ませたいだけや」
「社。意地張らんと、妖しの件が片付いたら向こうで少しゆっくりさしてもろたらええ。
儂はおまえが戻って来るまでここは空けんと待っとるし、それに賀茂明云うたらおまえ、
陰陽師としても有名やけどもう一つ――」
「よーしよし、いい子だ!今日は大変だけど、もう一頑張りしてくれな。
社!先に乗ってくれ」
光が葦毛の馬の手綱を引いてくると、師弟が振り返った。
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「なんや、帰りもその馬で行くつもりかいな。疲れとるみたいで、かわいそやなぁ」
「そうだけど、歩いて行ったら時間かかるし。飛ばせば明日の朝までに着けるかも――」
今光の頭を占めているのは都で待つ明。それだけだった。
思いがけず夜の間に出発出来ることになって、うまくすれば予定より早く
明のもとへ戻れるかもしれないと思うと余計に気が逸る。
――賀茂!待ってろよ、今戻るからな!
だが吉川上人は眉を下げて首を振った。
「アカンなぁ、そんな殺生なこと。生き物は労らなアカンわ。み仏の教えでは
輪廻転生云うてな、誰でも来世は鳥獣や魚に生まれ変わるかもしれへん云われとる。
せやから人間の勝手で生き物を苦しめるんは良くないわ。今夜はその馬は休ませなさい」
「えっ、だって」
ここから都まで人の足で行ったら、どれだけかかるか分からない。
未練がましく馬に寄り添ったままの光の手から手綱を奪い取って、上人は云った。
「心配せんでも、一件落着してアンタがまた取りに来るまでコイツは儂が
責任持って預かっとくわ。それより一刻も早く、友達の所に急いだらええ」
「で、でも!急ぐって云ったって、馬無しじゃ限界があるよ」
光が焦って云うと、上人は少しキョトンとした後、呵呵大笑した。
「そうかそうか、そらそうや!馬がなければ遅くなる、それが世間の常識やったな。
せやけどそれが心配ないのやで。坊んにはまだ何にも云うとらへんかったが――社!」
「はいっ!」
そこで光は、信じられない光景を目にすることになった。
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