落日 59 - 60
(59)
今は祓ってしまった鬼の、魂を裂くような吟が耳について離れない。
哀しい存在だった。
人の心の闇が凝縮し、それに押しつぶされて喰らわれた時、ヒトはオニと成る。陰陽師としてその
ような存在と相対したことは無かったではないが、けれどそれでもあのように哀しい存在を知らな
かった。
かつて愛した、そして自分を裏切った愛しい男を呪い、捨てられた自分自身を呪い、世を呪い、全
てを呪い、男の血をひいた幼な子を喰らい、ついには子を攫っては喰らう鬼と成り果てた女。
ひとは誰でもあのような鬼に成り得るのだろうか。
男が女を騙したのではない。裏切ったのではない。女は男の在りようを理解できず、男もまた、己
を曲げて女に寄り添うことはできなかった。
幼い吾子の柔らかな皮膚を切り裂き、血肉を啜りながら鳴く鬼の、哀しい、哀しい、哀しい、という
慟哭の声が、闇に吸い込まれながらも木霊していた。哀しく恐ろしいはずなのに、それでも背筋が
震えるほどに美しく、惹き込まれるような声だった。
その美しい悲鳴が未だ耳に残るような気がする。
女の、男への想いが妄執であったなら、男の、自らの業にかける心も妄執であったのだろう。
男が最後に手掛けた美しい蒔絵の手鏡は、けれど完成される事はなく、妄執を焼き払う炎となって
彼らを包んだ。天にも届くほどの火柱が、鬼を包み、鏡を包み、闇夜を昼に変えるほどの眩さで燃
え上がり、次の瞬間にはぱっと消え去った。
やがて訪れた朝の光の下、土も草も何一つ焼けた後など残さぬその場に、黒く焦げた丸い鏡が、
それだけが彼らの存在した証であるかのように、遺されていた。
(60)
日の落ちる前にここにやっと辿り着いたという都人が、近頃の都の噂話をしている。
「帝の囲碁指南役が代わられたという話を聞きましたが…」
何気ないふうを装ってそのように話を向けてみたが、彼はそのような話は知らぬと言った。
「そうですか。」
噂にもならぬほどの事だったろうか。いや、宮中に参内するような貴族でなければそこまで細かな
事など知らぬのも当然なのかもしれない。
最後に見たあの人の、全てを悟りきったような静かな笑顔を思い出す。
都からここを目指して歩いている途中で、不意に足を止めてしまった事があった。何かもわからず、
ただ心がざわめいて、ここを離れてはいけない、戻らなければならないという衝動に駆られた。警護
の者さえいなければ、自分は勅命など投げ捨てて都を目指して走り出していただろう。
けれどそれは許されず、今、自分はここにこうして一人いる。
きっとその時に逝ってしまったのであろう人を思い、そしてまた、残された人を思う。
彼はどうしているだろう。最後に会えたのだろうか。会えなければ会えなかった事に、会ってしまえば
引き止めることもできなかった事に、きっと彼は苦しんでいる。
自分は何もできずとも、傍にいたかった。共に苦しみを分かち合いたかった。
|