誘惑 第三部 59 - 62


(59)
「なんか、新鮮。」
「何が?」
「ここに塔矢がいるのが。」
何を今更、とアキラは思う。この部屋に来たのは、確かに久しぶりではあるけれど、今までに何度
も来ているのに。それを見越したかのようにヒカルが言う。
「そりゃ、今までにだって何度も来たことあるけどさ、」
ヒカルは一旦言葉を切って、アキラの顔から目を逸らし、それから低い声で話し出した。
「あん時さ、オレ、もう、会えないのかもしれないって、思ってた。」
ヒカルの話し出した内容に、アキラが表情を曇らせた。
「オレ、おまえが中国に行っちゃったのも知らなくて。
置いてかれたって、思った。
もう塔矢はオレなんか要らないんだって。だから一人で行っちゃったんだって。
バカだよな。自分から会いたくないって言ったくせに。」
ちらっと顔を上げてアキラに向かって小さく笑い、それからまた俯いて、続けた。
「でも、そのあと、おまえの打った棋譜見てさ、オレ、思ったんだ。
塔矢ってやっぱりすげェや、オレも塔矢と打ちてェって。そんで、ずーっとその棋譜見てた。
あん時、オレ、おまえとはもうダメなんだと思ってた。でも、それでも、おまえがもうオレなんか要ら
ないって言っても、それでもオレはおまえを追い続けてしまうだろうって。オレとおまえとの間の絆
は、切りたくても切れないんだって。オレがずっと打ち続けてて、やっぱりおまえも打ち続けてたら、
それだけで、オレはおまえと一緒にいられるって。
オレ、一人の人間としての塔矢アキラがすごく好きだけど、おんなじくらい、碁打ちの塔矢アキラ
が好きだ。おまえの碁が好きだ。オレの憧れだ。だから、」
そう言うと、ヒカルは顔を上げて、真っ直ぐにアキラを見た。
「打とう。」
ヒカルの、迷いも無い真っ直ぐな眼差しに、アキラは目を瞬かせた。
「オレと、打って、塔矢。」


(60)
そう言ったヒカルは碁盤の前に座ってアキラを待つ。
「あ、でも…いいの?」
そんなヒカルに、僅かに怯えたようにアキラが言った。
「いいの、って…何が?」
「だって、」
と言って、碁盤を見、それからヒカルを見る。けれどヒカルはアキラが何が言いたいのかわからずに、
どうしたんだ、と言うように首をかしげた。
「その、碁盤。」
「碁盤が?何?」
「ボクとは打たないって、言ったじゃないか。」
「何だよ、いつの話してんだよ。」
「その碁盤は…特別だから、使えないって、言ったじゃないか。」
「オレ…そんな事、言った?」
「言ったよ。」
「いつ。」
「いつだったか…そう、確かボクが初めてここに来た時に。」
「……あっ、」
「そうだよ。ボクが打とうかって言ったら、キミはダメだって。」
息を飲んで呆然とした表情のヒカルに気付いて、アキラは訝しげに声をかけた。
「……どうしたの?」
そうだった。思い出した。塔矢が初めてうちに来て、ここに泊まっていった時。打とうかって、こいつが
言った。けどオレはダメだって言ったんだ。だって、オレ…。
「バカヤロ……思い出させんなよ…」
不意にヒカルの顔が歪む。
「だから…だから、ヤだったんだよ。この碁盤は、特別だから、だからおまえと打ったりしたら、オレ、
泣いちゃいそうだって、おまえに泣き顔なんか見せたくないって、そう思って、だから…」


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「…ごめん。」
よくわからないけれど、ヒカルが泣き出したのは自分の言葉のせいらしくて、アキラは途惑いながら、
ヒカルを宥めるように謝った。
けれど、ヒカルは涙をこらえようともせずに俯いて首を振った。

謝るのはおまえじゃない。オレの方だ。
ごめん、塔矢。ごめん、佐為。
おまえが追っかけてた佐為を、乗っ取っちゃったのはオレだ。
ずっと佐為と打ってたこの碁盤でおまえと打つのは、佐為がいたらこんなに嬉しい事はないのに。
塔矢、おまえに追いつくために、佐為、おまえと打ち続けた。
絶対追いついてやる、前だけを真っ直ぐ見てる塔矢の目をオレに向けさせてやるって。
佐為、おまえを追いかけてる塔矢を追いかけて、掴まえて、オレの方を向かせてやるって。
でもオレが碁に夢中になりすぎて、オレがオレの碁と塔矢の碁ばっか追っかけてる内に、佐為は
いっちまった。
オレは生身の塔矢は掴まえたけど、まだ塔矢の碁を掴まえられない。まだ、追いつけてない。
だから、まだ言えない。まだ話せない。

ヒカルは碁盤の表面をそっと撫でながら、心の中で思った。
佐為。いいだろ?おまえと打ち続けたこの碁盤で塔矢と打って。
まだオレはおまえには全然届かない。もしかしたらオレ、おまえには一生辿り着けないのかもしれ
ないけど、でも、オレ、打つから。一生、打ち続けるから。塔矢と一緒に。
だから、見ててくれよ。オレがどこまで塔矢に追いつけたか。


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「泣くな、進藤。」
「…あん時はさ、おまえに泣き顔なんか見られたくねーって、思ったけど、でも、いいんだ、もう。
だってさ、今、おまえに泣き顔見られたって恥ずかしくなんかねえもん。おまえには泣き顔だって、
もっと恥ずかしい顔だって散々見られてるし。」
「し、進藤…」
「それにオレ、塔矢の泣き顔だって、恥ずかしい顔だって、イヤラシイ顔だって、一杯見ちゃってる
もんなっ。」
「進藤っ!」
乱暴に涙を拭いながら、アキラに向かって照れ隠しのように笑った。
「へへっ…」
「キミって奴は…」
それなのに、それでもまだ言えない。
恥ずかしい事なんてない、そう思っててもまだ言えない事もある。
「……ごめん、塔矢。」
「…わかったから……もういい。いいんだよ。ボクは。いつでも、ずっと待ってるから。」
「塔矢……」
「ホラ、打つんだろ。いつまでもべそべそ泣いてるな。」
「うん、」
「ニギるよ?」
そう言ってアキラが一掴みの白石を握る。
ヒカルは鼻を啜りながら、黒石を置いた。
アキラが白石を数えて、ヒカルに告げる。
「キミが先番だ。」
「それじゃあ、お願いします。」
「お願いします。」



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