兄貴vsマツゲ? 6 - 10


(6)
再戦を意識したとは言え相手の意図をろくに確かめもせずのこのこホテルの部屋まで
ついてきてしまったことと、その結果兄弟子にまで迷惑をかけてしまったことを反省してか、
アキラは肩を落とし、叱られるのを待つ子供のようにちんまりと膝の上に両手を揃えて
椅子の上で小さくなっている。
いつもの小賢しいほど自信に満ちた態度がすっかり取り払われたアキラはいかにも従順で
頼りなげで、その姿が緒方に素直で愛くるしかった幼い頃のアキラを彷彿とさせた。
それを懐かしく思う一方、年長者としてここは説教の一つもしておかねばという考えが
緒方に起こった。
ゆっくりとした動作で煙草を一本取り出し、マッチで火を点けて燻らせる。
それから緒方は片手の指で煙草を軽く挟んだまま、アキラを見つめ威厳に満ちた声で言った。
「アキラくん。・・・先生たちの留守中にキミに何かあったら、オレは腹を切って詫びても
足りないぜ。オレが来なかったらどうするつもりだったんだ」
アキラの眉がピクリと吊りあがった。
「・・・どうって・・・彼の望み通りにしていたかもしれませんね」
さっきまでしおらしい様子だったのに、突然つっけんどんにそっぽを向いて答えたアキラに
緒方は危うく煙草を取り落としそうになった。
焦って挟み直し、そのまま、向かい側のソファにゆったりと身を沈め優雅に脚を投げ出す
永夏を指差してやる。
「コ、コイツと寝てたかもしれないってことか!?キミはそれでいいのか!」
「だって緒方さんが呼んでも来てくださらないなら、仕方がないじゃありませんか」
「来ないなんて誰も言っていないだろう!」
何故アキラが突然不機嫌になったのかわからない。
混乱する緒方をジッと見つめながらアキラは言った。
「そうですね。緒方さんはお父さんの弟子で、ボクはお父さんの息子だから。だから緒方
さんは急いで来てくれた、でも・・・そんな理由なら、来てくださらないほうがマシです・・・!」
言い終わらないうちに語尾が震え始め、強い光を放つアキラの大きな目から大粒の涙が
ぽろぽろっと一気に三、四粒零れ落ちた。


(7)
緒方は一瞬、心臓が止まりそうになった。
幼い頃のアキラは素直で聞きわけの良い子供だったが年に一、二度大泣きすることがあり、
目の前のアキラの涙がその時の記憶を甦らせたためだった。
幼いアキラが大泣きする時はまず見開いた目から大粒の涙がぽろぽろっと零れ落ち、
次いでふぇっ、ふぇっとしゃくり上げる声と共に可憐な顔がくしゃくしゃに歪んで、
次の瞬間天地を揺るがすような大音声がご近所一帯に響き渡る。
またそういう時に限ってアキラをなだめられる明子夫人がいない。
小さな怪獣のように喉も裂けよと泣き続けるアキラに師匠も門下も上を下への大騒ぎとなる
悪夢のような情景が、緒方の脳裏に劇的にフラッシュバックした。

だがアキラはぽろぽろぽろとそのまま更に数粒、強気な目から涙を零すと、
濡れた長い睫毛を閉じ静かに俯いて、声も立てずに泣き始めた。
「・・・・・・!?」
予想外の反応に、緒方は己が目と耳を疑う。
アキラが小さく肩を震わせるたびに、艶やかな黒髪の中の綺麗なつむじが上下に揺れる。
「・・・アキラく・・・」
身を乗り出しアキラに触れようとした緒方の手を、ビシッ!と横から飛んできた手が払った。
「うぉっ」
ジンと痺れてしまった手をもう片方の手で押さえながら、緒方は向かい側に座る敵を見た。
永夏は緒方と視線を合わせたまま整った美貌にせせら笑うような笑みを浮かべると、
指の長いしなやかな手で緒方も愛用しているイタリア製高級ブランドのハンカチを取り出し、
泣いているアキラの顔を心配そうに覗き込みながらそっと差し出した。
「あ、ありがっ・・・ありがとう・・・っ」
アキラは小さくしゃくり上げながらハンカチを受け取り、目に押し当てて泣いた。
そんなアキラの肩を慰めるように抱きながら、永夏は呆然としている緒方に向かって
クルリと反りあがった長い睫毛を威嚇するようにバサバサ言わせ、もう一度艶然と笑った。


(8)
「〔塔矢はああ言ったが、今の、痴話喧嘩にしか見えなかったぜ〕」
「・・・あぁ?だからオレは韓国語はわからんと言ってるだろうが」
「〔塔矢もこんなオヤジのどこがいいんだか・・・思い出したぞ、緒方九段。塔矢行洋先生との
十段戦最終局の棋譜を見たことがある〕」
「・・・・・・?」
「〔塔矢先生は自由な素晴らしい碁だった。それまで何十年来のご自身の型をすっかり変え
られた。そうして先生は日本を出て世界へ――あの対局、勝ったのはアンタだが人の記憶に
残る碁を打ったのは負けた塔矢先生のほうだった〕」
永夏は今頃台湾の空の下にいるだろう塔矢行洋に対して敬意を表するようにしばし視線を
窓の外の雲の彼方に彷徨わせ、それから改めて緒方のほうに向き直ると厳しい口調で宣言した。
「〔あの対局、オレが塔矢先生の相手だったらもっといい碁を打っていた。棋士としても
オレのほうがアンタより上だ。アンタよりオレのほうが塔矢に相応しい〕」

「何を言っているんだかわからん。・・・せめて英語で喋れ」
緒方は肩を竦めた。
ふと見ると、アキラはまだ時折しゃくり上げてはいるものの涙は止まった様子で、
不思議そうに二人のやり取りを眺めている。
取りあえず泣きやんでくれたことにホッとした。
が、その肩にまだ永夏の手が置かれているのが気に入らない。
「アキラくん、落ち着いたか?・・・だったら、帰るぞ。車で家まで送るから、ついて来なさい」
煙草の火を揉み消しながらそれだけ言うと、緒方はソファから立ち上がりわざと後ろを
振り返らずに大股でドアに向かって歩き始めた。
それは昔、幼いアキラがブランコや砂遊びに夢中で夕方になっても帰りたがらない時に
よく使った手だ。
当時のアキラなら緒方が自分を置いていってしまうことに驚いて、どんなお気に入りの
遊具も放り出してボクもう帰る〜!と大慌てで後を追ってきたものである。
が、今回は緒方の手がドアノブに掛かり、カチャリと音を立ててドアが開く段になっても
一向にアキラが追ってくる気配がない。
「アキラくん?」


(9)
半開きのドアを押さえたまま緒方が振り向くと、アキラは相変わらず永夏に肩を抱かれたまま
椅子の上でハンカチを握り俯いている。
艶やかなアキラの黒髪に頬を寄せながら、永夏が勝ち誇ったように豪華な睫毛をバサバサ
言わせていたが緒方の目には入っていなかった。
「・・・アキラくん、オレはもう帰るぜ。ついて来なくて、いいのか?」
我ながら嫌らしい問い方だと思いながら緒方は言った。
俯いたアキラから目が離せない。
今すぐアキラが顔を上げて永夏の手を振り払い、緒方さん・・・っ!と駆け寄ってきてくれるなら
自分もアキラくん・・・っ!と両手を広げ迎えるだろう。そして二人はひしと抱き合い、
アツアツな抱擁に当てられた睫毛男は「やれやれ敵わないぜお二人さんには。オレも素敵な
恋愛、見つけなきゃな」と国へ帰って行くのだ。
アキラが今にも立ち上がって昔のように全速力でこちらへ駆けてきてくれる光景を、
緒方は祈るような気持ちで夢想した。

だが祈り空しく、アキラは緒方に視線を向けないまま顔だけ上げて、ふて腐れたように
言い放った。
「お帰りになりたいんでしたら、緒方さんお一人でどうぞ。・・・ボクは残ります」
「あ、あ、あ、アキラくん!」
卒倒しそうになって手をドアから離した拍子に、指を思い切りドアに挟んでしまった。
アキラがハッとして顔を向けたが、気が動転している緒方は自分が指を挟んだことすら
気づかなかった。


(10)
ずかずかと室内に戻ってどしんとソファにもう一度腰掛ける。
心配そうな顔をしていたアキラだが、緒方が怒った顔でぐっと視線を合わせると
唇を噛んでそっぽを向いてしまった。それがまた緒方の目には反抗的に映る。
「アキラくん、あんまり大人を困らせるもんじゃないぜ。初めに電話で助けを呼んだのは
キミじゃないか。それが何故今更、ここに残るなんて言い出すんだ。残ったらコイツに
何をされるかわからないんだぞ。それでもいいのか?」
「いいのかって。そんなのボクに聞くことですか?・・・どうして緒方さんは、いつもそう」
「え?」
「普段は子供扱いするくせに、肝心な時は突き放して・・・本当にボクが子供だと思うなら、
こんなの頭ごなしに叱りつけてくだされば済むことじゃないですか!馬鹿なことを言うなって
引っぱたいて、力づくでも連れ帰ればいい。そんなことも出来ないくせに、血だって繋がって
なんかないのに、まるで保護者みたいな態度でボクに接するのは止してください!
ボクはもうそんな、子供じゃない・・・っ!」
言いながら興奮がぶり返してきたのかアキラの目がまた見る見る潤み、赤みの差した頬の上に
綺麗な大粒の涙がつうっと一粒転がり落ちた。
その形のよい頭に、永夏が促すように手を当ててやると、アキラは堰を切ったように
永夏の胸に顔を埋めて泣き出した。

(ア、アキラくん・・・ついに、は、反抗期ってことか・・・っ?)
これほど激しい様子のアキラは、幼児期以来目にしたことがなかった。
アキラの怒りの理由はよくわからないが、どうも話を聞いていると緒方に保護者面されるのは
もう御免だと言いたいらしい。
幼い頃から自分を兄とも父とも慕ってくれたアキラからそんな風に言われる日が来ようとは。
いつもニコニコしながら自分のもとへ飛んできた愛らしいアキラの姿が十数年分の8ミリ
ビデオを流すように甦り、緒方は自分の目まで潤んでくるのを感じた。



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