Heat Exhaustion 6 - 10
(6)
ブラインドを下ろした仄暗い室内の温度は、アキラの体温を遙かに超えていた。
外も相当暑かった。
だが、それはアキラが盛夏の陽光が降り注ぐ中を歩いていたからだ。
体感温度こそ高かったものの、実際の外気温はこの部屋の温度には到底及ぶまい。
窓を閉めきっているせいか、湿度もほぼ飽和状態に達している様子だった。
にもかかわらず、窓際の壁の上方に敷設されたエアコンは、ひたすら不気味な沈黙を守り続けていた。
アキラはハンカチを口に当てたまま、しばし絶句してその場に立ち尽くしていた。
気が遠くなりそうな尋常ならざる高温多湿ぶりは、まさに未体験の世界だった。
全身の毛穴という毛穴から止め処なく汗が噴き出している。
その感覚が、やけに生々しく感じられてならなかった。
なんとか息をつくと、アキラは緒方の顔を見つめ、弱々しく呟いた。
「……窓、開けないんですか?」
「両隣のエアコンが此見よがしにフル稼働してるんだぜ。室外機の熱風がこっちのベランダに
流れてきてるのに、そんな自殺行為をしてどうする」
緒方は憤懣やる方ないといった様子で腕組みをしていた。
やりきれない思いで、アキラは項を伝い落ちる汗をハンカチで吸い取った。
触らぬ神に祟りなしということらしい。
無言のまま、緒方の表情をじっと見据えていた。
「ここだけじゃない。寝室のエアコンも、先週ほぼ同時に壊れたんだ。今日、午前中に修理屋が
来るはずだったんだが、予定が狂って来週までお預けだとさ!これで機嫌が悪くならないヤツが
いると思うか?」
語気を荒げ、自嘲気味に鼻を鳴らす緒方に、アキラはようやくクスクス笑いながら答えた。
「いないでしょうね、たぶん。……あれ?熱帯魚はどこに?」
アーロンチェアの横にある低い棚の上には、普段鎮座しているはずの水槽が見当たらなかった。
熱帯魚の餌の缶だけが、隅にぽつんと置かれていた。
(7)
「いつも行く店で預かってもらった。熱帯の魚とは言っても、やはりこの暑さではな……。
熱帯魚を茹で上げる趣味は、オレにはないんでね」
緒方はそう言って缶を手に取り、真上に放り投げた。
回転しながら落下する缶をキャッチすると、戯けたように手を広げ、肩をすくめてみせた。
その姿がどことなく寂しそうに見えるのは、気のせいではないのだろう。
そんな緒方を宥めるべく、アキラは手に提げていた紙袋を差し出した。
「じゃあこれ、早く冷蔵庫に入れてください。午前中に、父の知人から2箱も送られてきたんです。
3人じゃ食べきれないから、父が幾つか緒方さんの所に持って行くようにって」
緒方は手渡された紙袋から箱を取り出すと、そっと蓋を開けた。
先刻までほんの微かに漂っていた甘く爽やかな芳香が、ふわっとに辺り一面に広がり、
2人は思わず顔を見合わせて笑った。
箱の中には桃が6つ、白い梱包材に丁寧にくるまれて並んでいた。
「美味そうな桃だ。陣中見舞いとして有り難く頂戴するよ。電話してくれれば喜んでオレの方から
貰いに行くのに、アキラ君がわざわざ来てくれるとはなァ……。さっきはあんな態度で済まなかったな」
綻ぶ緒方の表情を嬉しそうに見つめながら、アキラは言った。
「いえ、いいんです。それより緒方さん、ずっとこんな所で生活してて身体は大丈夫なんですか?
碁聖戦に響くんじゃ……」
「最初はホテルに泊まろうかとも思ったが、いい加減慣れたよ。心頭滅却すればなんとやらさ。
第一この程度のことで音を上げてるヤツに、碁聖のタイトルは相応しくないだろうよ」
緒方は達観したかのように軽く笑うと、額に貼り付く前髪を掻き上げた。
(8)
桃の入った箱の蓋を閉じると、緒方はアキラの肩を軽く叩いて尋ねた。
「すぐに帰るか?せっかく来たんだ、何か冷たい物でも出すぞ。かなり汗をかいてるようだし、
水分を摂った方がいいだろ?」
「じゃあ、いただきます」
「それなら、取り敢えず座っててくれ。ソファよりも、このアーロンチェアの方が蒸れなくていい。
飲み物は何にする?結構色々揃ってるが……」
緒方の言葉に従いアーロンチェアに腰掛けると、アキラはPCデスク上のキーボードの横に置かれた
タンブラーを指差した。
「えーと……この赤いのは?さっきまで飲んでたんですか?」
タンブラーには赤い液体が1/3ばかり入っていた。
その表面はすっかり結露しており、水滴でデスクの上は濡れていた。
赤い液体の中には、溶けかけの氷がだらしなく浮かんでいた。
「ああ、それか……。断っておくが、それは酒だぞ。ブラッディ・メアリーと言って、
ウォッカをトマトジュースで割ったヤツだ」
緒方の言葉に、ハンカチでタンブラーの周囲を拭いていたアキラが鋭い声を飛ばした。
「こんな昼間からお酒なんて飲んでたんですか!?」
「……これが飲まずにやってられると思うか?慣れたとは言っても、さすがに素面で凌げる暑さじゃない」
緒方は照れ隠しに顎を撫でた。
アキラは半ば呆れたように「そうなんだ」と呟くと、手の中の濡れたハンカチに視線を落とした。
(9)
アキラはハンカチを弄りながらしばらく何やら考え込んでいが、不意に背凭れのリクライニングを
限界まで押し倒すと、そのままアーロンチェアをくるっと回転させた。
止まった視線の先には、ちょうど緒方の顔があった。
互いの目が合うと、アキラは不敵な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、ボクもここにいる以上、ちょっと酔っぱらった方がいいかもしれないですね。
これ、飲んでみてもいいですか?」
アキラは背凭れから勢いよく半身を起こしてタンブラーを手に取ると、緒方の返答を待つことなく
その縁に口を付け、くいっと傾けた。
冷たさと相俟って、コクのある程良い酸味と辛味が舌を心地良く刺激する。
飲み込んで「ふうっ」と一息つくと、アキラはタンブラーから唇を離した。
その拍子に中の氷が壁面にぶつかり、カランと涼しげな音を立てた。
暑さで火照る頬に結露したタンブラーを押し当てながら、アキラはうっとりと瞳を閉じていた。
どうやらこの冷たいアルコール飲料がすっかりお気に召したらしい。
多少名残惜しげにタンブラーを頬から離すと、目を開けて言った。
「お酒の割りには飲みやすいし、さっぱりして美味しいですね。トマトの味って、ボク好きなんです。
かなり辛いけど、これは唐辛子の辛さかなぁ?」
アキラは興味津々でもう一口飲んだ。
「うん。やっぱり唐辛子だ」
「……ただの辛いトマトジュースじゃないんだが……」
唖然とする緒方を余所に、アキラは結局残りを全部飲み干してしまった。
そして、口中に滑り込んだ氷を微かにひりつく舌で転がしながら、至福の清涼感に包まれて
再び背凭れに沈み込んだ。
(10)
「アキラ君……キミ、自分が幾つかわかってるのか?」
緒方は力無く眉間を押さえた。
「幾つでしたっけ?ここがあんまり暑いんで、どうも思い出せないなぁ……」
アキラはしれっとした顔で答えた。
すっかり空になったタンブラーをなんの躊躇いもなく緒方に差し出して、ニッコリと微笑んだ。
「今のと同じのをもらえますか?もっと辛くてもいいんですけど」
「……大人の飲み物を舐めてかかると、後が恐いぞ」
「大丈夫ですよ。ボク、お酒に関しては緒方さんより強いかもしれませんよ」
屈託のない笑顔を浮かべるアキラの言葉に他意はないのだろう。
それは緒方にもわかっていた。
だが、同じ勝負の世界に身を置く者としては、つい深読みせずにはいられなかった。
「『碁に関して』じゃなくて正直ホッとしたよ。……それとも、いずれはそう言われるのかな?
なにせ、その若さで本因坊リーグ入りしたキミのことだからな」
そう言って苦笑すると、緒方はタンブラーを渋々受け取った。
「用意するからアキラ君は洗面所で手と顔を洗ってくるといい。汗をかいて気持ち悪いんじゃないか?
それに、もう随分赤くなってるぞ」
緒方は片手で持っていた桃の箱の上にタンブラーを置くと、空いたもう片方の手でアキラの頬を
ぺちぺちと軽く叩いた。
長時間この部屋にいたはずなのに、緒方の手の感触は何故かひんやりとしている。
アキラは少し驚いた表情で、こくりと首を縦に振った。
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