蛍 6 - 10
(6)
それはともかくとして、進藤が本因坊秀策に拘っているのは確かだ。
実際、彼の口から聞いたことがある。
本因坊と碁聖のタイトルが欲しいと。
本因坊はわかるが、なぜ碁聖? と、訝しく思っていたのだが、秀策が道策とともに二大碁聖と呼ばれていたことを思いだし、そこまで拘っているのかと驚いた。
「俺も、おまえが本因坊で嬉しいよ」
ふわりと舞い上がった蛍が、進藤と僕の間を横切っていく。
淡い光が、進藤の一瞬の表情を、暴き立てる。
進藤が、続ける。怖いほど鋭い視線をひたち据え、聞かせる。
「これで……塔矢アキラから本因坊を奪える」
僕の全身に粟が立った。
苦労して鎮めようと足掻いていたのに、進藤に煽られて、身の内に燻る火が赤々と勢いを取り戻していく。
「奪えるものならね」
熱に浮かされたように、僕は呟いていた。
今日、僕がどれほど君と打ちたかったか、君にはわからない。
「挑戦者が君であることを、僕は祈っているよ」
進藤が僕の腕を掴んだ。
布ごしに感じる、汗ばんだ掌の、熱。
煽られる。
煽られて、燃え上がる。
「今の言葉、絶対後悔させてやる」
そう言って、進藤は顔を寄せてきた。彼がなにをするのか、僕はわかっていたと思う。
わかっていながら、拒む気にはなれなかった。
進藤が僕の口に齧りついてきた。
そうだ。齧りついてきたんだ。
キスなんて、可愛い言葉は似合わない。
もっと獰猛で荒々しい、これはキスじゃない。口付けじゃない。
(7)
僕は目を閉じなかった。進藤も僕を睨んでいる。
僕たちは、睨み合ったまま、お互いの唇を貪り合った。
僕は進藤の両腕に、しがみつくように指を食いこませていた。
進藤は逃がさないと言いたげに、僕の腰に手を置き、強い力で自分のほうへと引き寄せる。
密着する下半身に、熱く昂ぶるものを感じた。おそらく、進藤も同じ昂ぶりを感じていることだろう。
しばらくして唇が離れたとき、僕も進藤も荒い息をついていた。
いま僕たちは、誰よりも近いところにいる。
今日の対局で、燃え尽きることのなかった雄の本能が、進藤の宣戦布告に煽られて、違うものへと姿を変えてしまった。
鼓動が早い。
軽く触れ合った胸から、お互いの早い鼓動が感じられる。
うるさいほどに………。
視線が外せなかった。
僕たちは、しばらく動かずにじっとお互い睨み合う。
先に口を開いたのは進藤だった。
「飲まないか?」
僕も進藤も、本当に欲しいものがなんなのか、わかっていた。
でも、それを言葉にすることはできなかった。
「それなら……、僕の部屋で飲もう。ラウンジもバーも関係者で一杯だから……」
進藤は軽く頷いた。
僕たちは、蛍に見送られて、夜の庭園を後にした。
(8)
僕が、ドアを開け進藤を招き入れた。
進藤が、後ろ手で鍵をかけた。
カチャリという金属音を、僕も進藤も暗闇の中で聞いた。
窓から差し込む水銀灯の光が、室内を照らしていた。
この、不思議な渇望を潤すことができるのは、酒ではないことを僕は知っていた。
砂漠を流離う哀れな旅人のような、渇き。
きっと、同じ渇きに進藤も苦しんでいるはずだ。
僕たちの砂漠は、僕たちの内にあって、それはお互いでなければ潤すことができない。
進藤が後ろから抱きしめてきた。
汗の匂いに眩暈を覚えた。
進藤が、僕の髪を鼻先で掻き分け、無防備な首筋に唇を押し当てる。
「あ……」
すぐに与えられた熱く濡れた感触に、僕は思わず声を漏らしていた。
空調から噴出す冷たい風が、首筋から熱を奪う。肌に残る冷たい感触に、身の内の熱だけはさらに煽られる。
進藤が僕を抱く腕に力をこめる。
僕がここに誘ったのに、なぜ浚われてしまったように感じるのだろう。
「塔矢が抱く?」
抱きしめられたまま、耳元で囁かれる。
熱い吐息が耳にかかって、僕は答えを失ってしまう。
「俺が抱いてもいい?」
進藤は僕から身体を少し離すと、僕の顎に手をそえ無理矢理顔を後ろに向かせると、そう聞いてきた。
じっと見つめられて、僕は思わず小さく頷いていた。
(9)
どちらでもよかった。
進藤がそれを望むなら、僕が抱いていただろう。
受け入れる受け入れないに意味はなかった。
一刻も早くこの火を鎮めたい。いま大切なのは、それだけだった。
頷いて顔を上げると、進藤が唇を寄せてきた。
今度は目を閉じて、キスを受ける。
苦しい態勢なのに、辛くはなかった。庭園での貪るような勢いはなかったが、むしろこちらのほうが僕を夢中にさせた。
進藤の舌が、僕の唇を割って忍び込む。
強引に歯列をこじ開けられて、あっと言う間に舌を絡められる。
やはり、無理な態勢だったのだろう。僕たちはもつれるようにして、畳の上に倒れこんでいた。
濡れた音を立てて、唇が離れる。
僕たちは、もどかしい思いで靴を脱ぎ、部屋に上がった。
部屋の中央に一組だけ布団がしかれていた。
その枕もとで、二人で服を脱がせ会う。
進藤が僕のネクタイを抜き取り、僕が進藤のサマージャケットを剥いだ。
先に脱ぎ終えた進藤が、夏がけを足で蹴り飛ばし、僕を腕に抱きこんで横たわる。
前髪がかきあげられ、顕になった額に唇が降りてきた。
それを皮切りに、進藤は僕の顔中にキスを雨のように降り注ぐ。
僕はそんな進藤の背中に腕を回し、しがみついていた。
そこで始めて気がつく。進藤に組みしかれていることに。
初めてであった時は、僕のほうが背が高かったのに、いつのまにか抜かされていた。
僕と違って骨格のしっかりした進藤は、まだ大きくなるのだろう。
進藤が、両肘をついて、体を起こす。
ほんの少し高いところから、僕を見下ろし囁いた。
「塔矢も……、俺のこと好きになってよ」
言葉の意味を把握しきれないうちに、進藤の唇が僕の唇を塞いでいた。
軽く触れ合わせたあと、進藤の唇が、僕の上唇を挟んで引っ張る。
進藤は瞼を閉じていた。だから、僕も目を瞑った。
目を瞑り、唇でふざけながら、僕は進藤の言葉の意味を考える。
(10)
―――――塔矢も……、俺のこと好きになってよ
馬鹿だなぁ……、進藤。そんなに簡単に手の内曝していいのか?
嫌になる。
勝算があるから、言葉にしたんだろう?
その自信はどこからくるんだ? 相変わらず失礼な奴だよ、君は。
舌が差し込まれた。
これまでになく、深くまで差し込まれたそれに、おずおずと舌で触れた。
「………ふ…ぅ…」
息苦しくて、呼吸が乱れる。
無意識に逃げる僕を、進藤は両手で捕まえた。両の頬に進藤の掌が。
それは、庭園で感じたものと違い、さらりと乾いていた。
激しいキスに、僕の意識は半ば朦朧としてきた。
ぴたりと重ねあった唇。絡ませた舌が、進藤の唾液を送ってくる。
僕はそれを音をたてて嚥下した。
甘く感じられたのは、つまらない錯覚だろうか。
進藤がようやく唇を離す。唇を離す瞬間、下唇をそっと吸われた。
息を荒げて進藤を見上げると、進藤は僕の髪を優しく撫でてくれた。
「そんな目で見るな。」
僕は、進藤のその一言が可笑しく思えて、思わず笑ってしまった。
「そうやって、煽るなよ……」
嬉しくなる。
僕だけが煽られているんじゃない。進藤も、僕に煽られているんだ。
「俺が抱くよ。優しくはできないと思う。覚悟して」
耳朶を甘噛みしながら、こんな勝手なことを言う。
自分勝手で我侭でいつまでたっても大人になりきれない……進藤ヒカル。
僕は、なぜ………彼だけを求めてしまうのだろう。
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