紙一重 6 - 10
(6)
震える手を抑えながら社は部屋の鍵を開け、ドアを押した。内側にドアが開くので、社は
廊下から体をドアに沿わせてスペースを作り、アキラの入室を態度で促した。
アキラはわざと社の体すれすれの所を通り、ドアノブを押している事で体が斜めになって、
顔の位置が同じ高さになっている社を横目でチラッと見ながら入室した。
自分の体を掠めるように通った時のフワリとした風は、社を狂わせるのに十分な香りを
放っており、さらに誘うようなアキラの視線を浴びて、社は完全に理性を失ってしまった。
ドアを閉めると、すでに部屋の中程近くまで進んでいたアキラを追いかけて、いきなり
後ろから抱きついた。
「塔矢・・好きや・・お前が好きなんや!」
アキラを抱き締めて黒髪に顔を埋めると、アキラの匂いと温もりと息遣いを強く感じて、
社は堪らずさらに強く抱き締めた。
「塔矢、塔矢・・・・・好きや、ずっと好きやった」
社は髪に口付けながらアキラのジャケットを後ろから脱がして放り投げ、自分の上着も
脱いでアキラを改めて抱き締める。セーター一枚の上から抱き締めたアキラの体は華奢で
力を入れ過ぎると壊れてしまいそうだったが、体温は燃えるように熱かった。
社は唇をアキラの耳まで這わせて、優しく耳朶に口付けると、アキラの体がビクンと
反応した。驚いた社は、そのまま唇を移動させて項を舐めるように口付ける。
「あぁぁ・・・・」
思わずアキラから甘い吐息が漏れて、息遣いが荒くなって来るのが分かった。
───!!??
もしかしたら拒否されて跳ね飛ばされるかもしれない、と思っていた社は、思わぬアキラの
反応に、さらに煽られて体中の血液が激しく循環するのを感じていた。
(7)
アキラは目を瞑って社の抱擁を味わっていた。
ずっと誰かに想いを籠めて熱い体で激しく抱き締めてもらいたかった。
一度味わって得てしまった肉体的快楽は、普段は身体の奥底に沈めておいても、時々
自分でも制御出来ない位に出口を求めて激しく沸き上がって来てアキラを苦しめていた。
自分がこんな人間であった事に嫌悪すると同時に、こんな身体にしてしまった相手をも
恨んでいた。恨んで、蔑んで、憎しんで、呪っても、身体の何処かでもう一度、その快楽を
与えられる事を待ち望んでいる自分を発見して愕然とする。
自分の身体に沁みついてしまった、快楽は与えられるもの、というおぞましい現実は、
今まで真っ直ぐに歩いて来たアキラには耐え難い屈辱であり、最初はそんな自分の身体を
穢れて腐った肉体のように感じていたが、人を愛する、という感情に出会った時に、
与えられる快楽も与えて得る快楽も、その違いは紙一重である事が分かってきた。
その事に気付いてからは、自分に対する嫌悪感も、相手に対する恨みも不思議なほど
薄らいで、気持ちも落ち着いて来ていたが、時々沸きあがる欲望はどうしても抑える事が
出来なかった。一時的に自分で処理しても、熱い火種は体の奥に燻り続け、ふとした時に
感覚の記憶が鮮明に蘇り、身を捩じらせるほどの炎が激しく燃え上がる。そんな時は体が
熱く疼いて自分ではどうする事も出来ないもどかしさに耐えられず、低い唸り声と共に
涙を流しながら自分を抱き締めて、その波が引いて行くのをじっと待っていた。
社の打つ碁が取るに足らない内容だったら、食事に誘われても断っていたかも知れないし、
緒方に遭遇しなければ、部屋に誘われても付いて来なかったかも知れない。
社は思っていたよりも純粋で、その社のアキラに対する真摯な気持ちを利用することに
一抹の後ろめたさはあったが、社の自分を見る瞳の中に雄の獣性を垣間見た時に、その後ろ
めたさは霧散した。部屋に来る事に同意した時点で、自分の燻り続ける欲望の火種を消して
くれるのであれば社に身を委ねる事に何の迷いも無くなっていた。
(8)
部屋に入ると、思っていた通り社はアキラに抱き付いて来た。それはアキラが望んでいた
事であり、アキラがそうするように仕向けて餌を蒔いて来たのだから、社の行動に何の
驚きも無かった。むしろ少しでも早く自分の欲望の炎を鎮めて欲しかった。
すでに社に対して自分を取り繕う気は全く無くなっており、生身のアキラだけが存在した。
社はアキラの首筋に口付けながら、側にあるベッドの羽毛掛け布団を引っ張り落とし、
アキラの体をベッドに押し倒した。
上を向かせると、目を瞑っているアキラの唇を激しく奪いながら全身を密着させ体重を
かけてアキラの動きを封じる。社の舌が勢い良くアキラの口腔内に侵入するとアキラは
それに積極的に応じて舌を絡めて来た。社はアキラの口腔内を蹂躙して舌を吸い上げ、
唾液を送り続けながら自分とアキラの靴を足で脱ぎ落とした。
───なんで塔矢は拒否しないんや?自惚れてもええんやろか?
社が唇を離して問うようにアキラを見ると、アキラは問い返すような瞳を向けてきた。
息を荒げながら2人は暫く見詰め合っていたが、
「ええんか?」
そう尋ねる社に
「そのつもりだったんじゃないのか?好きにすればいい」
アキラはそう答える。
「好きにって・・・・本気にしてもええんか?」
「本気?」
「俺のこと・・・・・」
「抱く気が無いなら帰る」
───どういう事や?どうすればええんや?これが塔矢アキラか?
驚きでアキラを見詰める社を見て、
「初めてってわけではないだろ?早くすればいい」
そうアキラは言うと溜息をついて顔を横に向けた。
(9)
困惑した社は、必死でアキラの真意を掴もうとする。
「塔矢・・・俺、男は始めてなんや。こんな気持ちになったのもお前が始めてや。ほんまやで。
お前の事がずっと好きやった・・・・・。俺の事どう思ってるんや?」
「どうって・・・・・別に」
「好きってわけやないんやな?」
「わからない・・・・・」
「なら、なんでや?」
「何が?」
「なんで俺に抱かれようとするんや?」
「もういい!どうしてそんな事聞くんだ!キミは僕に下心があって部屋に誘った。僕が
好きにすればいいって言っているのだから、そうすればいいじゃないか!!」
アキラは苛立っていた。早く欲望の炎を消して欲しかったのに、自分の思う通りに事が
運んだのは社が抱きついて来たところまでで、それから先に進もうとしない社が不思議で
仕方が無かった。アキラには愛情のあるセックスの経験が無かったので、社の微妙な
心の機微がわかっていなかったのである。
社は戸惑っていた。夢にまで見たアキラを手に入れるチャンスを目の前にして、アキラの
気持ちが掴めず先に進めなかった。アキラを口説いて手に入れたいと思ってはいたが、
気持ちが全く伴わない肉体を差し出されても抱く気にはなれなかった。
今までの女相手のセックスでも、体だけの関係を持った事はなかったし、愛情の無い関係を
築くつもりは無かった。
だがこのままアキラを帰したら、アキラの気持ちも肉体も永遠に手に入れる事が出来なると
思うと、どうしたら良いのか分からなかった。
「塔矢・・・・。俺と付き合うてくれる気はあるんか?」
「もういいからどいてくれないか」
そう言ってアキラは社の下から起き上がろうとするが、社はアキラの体にのしかかったまま
動かず、逃げられないように、さらに腕を押さえつけた。
(10)
「どういう事や!俺の気持ちを知っとって弄んだんか?誘われたら誰とでも寝るんか?!」
「バカにするな!!キミに何がわかる!何がわかるんだ!!好きとか嫌いとか関係ない!
そんなもの関係ない!だからって誰とでも寝るわけではない!!・・・・・」
そう強い口調でまくし立てるとアキラの表情から厳しさが消えて目に涙が滲んできた。
「・・・自分でも良く分からない・・・・・苦しくてどうしようも無い時もあるんだ・・・・あるんだ・・・・」
アキラはその時、さっき顔を合わせた緒方の事を思い出していた。緒方が野暮用であそこに
来ているわけが無く、恐らくセンターに講師で来ていたプロ棋士の誰かから聞いたか、
アキラが現れたことに驚いたセンターの人間が棋院の誰かに話した事をたまたま聞きつけて
来たのだと思われた。
アキラが現れただけなら来るわけもなかったが、関西棋院の社と一緒だと聞いたので二人の
関係を確かめるために来たのだろうとアキラは思っていた。
それは緒方のアキラに向けられた視線や言葉から容易に想像出来たし、緒方がそういう
人間だという事をアキラは良く知っていた。
今までもそうした駆け引きを何度緒方と繰り返してきたか分からなかった。
緒方との、糸が複雑に絡むような関係から二人共完全に逃れる事が出来ずに居た。
アキラが小さい頃の二人の関係に戻るのは、最早叶わぬ事なのをお互いに知っていたし、
戻りたいとも思っていなかったが、目に見えない絆を断ち切ることは出来なかった。
果たして緒方がプレゼントの中身を見たのかは疑問だったが、今回はわざわざお誕生日
プレゼントを持って行った事に対する緒方の仕返しなのかも知れない、とアキラは思った。
アキラは、自分をこんな体にした人間の呪縛から解放されて津波のように襲ってくる欲望の
苦しみから救ってくれる人間がいれば、なりふり構わず縋りたい思いだった。
そうは言っても誰でも良い訳ではなく、社の事を好きなわけでも無かったが、だからと言って
嫌いなわけでも無かった。
自分のバラバラな心と体をアキラ自身もどうすれば良いのかわからず自然に涙が溢れた。
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