光明 6 - 10
(6)
「あれ そこに誰かいるの? もしかして・・・塔矢か?」
アキラは一瞬何が起きたのかすぐ理解出来なかった。
長い間暗い所にいたので目が強い光を受け入れるのに少し時間がかかった。
聞き慣れた声の主が また自分に話しかけた。
「お前塔矢だろ こんな時間にどうしたんだよ?」
やがてアキラの目には玄関のドアを開けて家内の電気の明かりを背にしたヒカルが
ハッキリと映った。
「・・・進藤・・・?」
「うわぁあっ お前 頭と肩が雪で真っ白だっ! 何やってんだよっ!!」
ヒカルはアキラの元へ走り寄り、アキラの体に積もった雪を手で急いで払い落としながら
「どうしたんだよ いったい?」とアキラに訪ねた。
「あっ、いや たまたま近くを通ったものだから・・・。」
何を言ったらいいのか アキラは うまく言葉が見付からない。
あまりその事を探られたくないので「進藤は これから何処かへ出かけるのか?」と逆に聞き返した。
ヒカルは黒いジャンバーを着て首には緑色のマフラーを巻いていた。
「ああ。近くのコンビニへ行こうと思って。お母さん オレが頼んだ物を買い忘れたんだぜ? ったくもうっ!」と
ヒカルは口を尖らせて言った。
大晦日の夜更けに出かけてまで買うものって何だろうという素朴な疑問がアキラに湧いた。
「で、何を買いに行くんだ?」
「CCレモン」
「・・・CC・・レモン?」
「あれがなくて年を越せるかっつーうの!」
(7)
アキラは拍子抜けて目を丸くし それと同時に笑いが込み上げプッと噴出した。
「あっ 笑ったなぁ塔矢! CCレモンをバカにするな オレは好きなんだよっ!」
いたく憤慨するヒカルを横目にアキラは腹を抱えて笑った。
自分の中で緊張した何かがヒカルと会った事で ゆるやかに解けていくのを感じた。
「いや・・・キミらしいなあと思って。」と涙目で答えるのが精一杯だった。
ヒカルに会えて良かったと素直に思った。
アキラはヒカルと一緒に歩き出した。ヒカルが行くコンビニがアキラが帰る方向と同じだった。
「お前も無茶するなあ。風邪引くぞ。」
「そうだね。自分でもそう思うよ。」
いっそう冷え込みが増して寒さが厳しくなり両耳がピリピリと痛み出した。
寒さと同時に空気が一段と澄んできて二人の話す声が辺りに軽く響く。
やがてコンビニに着き、ヒカルはカゴに目当てのCCレモンとスナック菓子を次々と入れた。
アキラは体の芯が冷え切っているので とりあえずホットコーヒーを買い一足先にコンビニを出た。
店の明かりが かろうじて当たる駐車場の隅で店を背にしてコーヒーを飲み やっと一息ついた。
その時「塔矢!」とヒカルの声が後ろから聞こえたので振り向くと
アキラの左頬に柔らかく熱い物が当てられた。
「・・熱っつ! 何するんだ進藤っ!?」
アキラの頬に当てられたのは肉まんだった。
「へへっ さっきオレを笑った仕返しだ。 お前体冷え切っているだろ それ食えよ。」
「あ・・ありがとう。」とアキラは肉まんを受け取った。
正直食欲はなかったがヒカルの気遣いが嬉しかった。
ヒカルの左腕にはジュースのボトルとお菓子が入ったビニール袋をひじにぶら下げ、
左手は沢山の肉まんが入った紙袋を抱えていた。
そして 一個の肉まんを右手で約3・4口でガツガツと食べ、あっという間に平らげた。
華奢な体によくあれだけ入るものだとアキラは感心した。
(8)
見事な食べっぷりに目がクギ付けになっているアキラに「お前 まだ肉まん欲しいのか? 結構食い意地悪いな。」と
ヒカルは口をモゴモゴさせて言った。
ムッとした表情で「一つで結構!」とアキラは言い、「そのセリフはキミのほうだろ」という言葉を
グッと飲み込んで肉まんをひと口ずつちぎって口に入れた。
「おっ 雪止んだな。」とヒカルは空を見上げながら言った。
ヒカルにつられてアキラも空を見上げた。
その時「ゴオォォーン」と何処かの寺院の除夜の鐘が澄んだ夜の空気に溶け込んで低く響き渡った。
時計は すでに23時を過ぎていた。
フッとヒカルはアキラの横顔を見て目が何処となく虚ろで いつもの覇気がないことに気が付いた。
アキラは たまに強引な行動をする時はあるが、その行動には それなりの理由があり
闇雲に動くタイプではない事をヒカルはよく知っていたので今日のアキラは かなり不自然に感じた。
「お前さ オレの家に来たのって何か理由があるんだろ? 何かオレに話したい事でもあるなら話せよ。
オレの家の前で黙って立ってんなよ 水臭ぇなあ。オレはお前だと すぐ分かったから良かったけど
知らないアカの他人だったらマジ怖えぇよ。」
アキラは黙ってまだ空を見ている。
「まあオレに話しても意味ないなら別にいいけど。」とヒカルは少しヒネた表情をした。
しばらく空を見ていたアキラはヒカルの方へ顔を向けた。
ふてくされた顔をしたヒカルをアキラは しばらく見て、やがて重い口を開いた。
「今日 用事で縁のある寺に行ったんだ。そこで お坊さんに指導碁を打った時
神の一手を目指す事は碁の神様になるのと同じだと言われたんだ。
それを聞いてボクは神の一手の意味を実は全然分かっていなく それを目指す覚悟が
まだ足りない事に気が付いてしまったんだ。正直少し恐ろしくなった。」
二人の間に沈黙が流れた。
(9)
長い沈黙を最初に破ったのはヒカルだった。
「何言ってんだ お前。」
「えっ?」
「オレは なってやるぜ碁の神様に! 誰にも手が出せない究極の一手を いつか打ってみせるって
毎日思いながら打ってるぜ。塔矢お前もそうだろ?」と言いながら一瞬ヒカルの心に佐為の姿が浮かんだ。
「オレをプロの世界に引きずり込んだのは お前だぞ。そのお前がオレから、神の一手から逃げるのか!?」
それを聞いたアキラは目を吊り上げてヒカルに向かい激しく怒鳴った。
「逃げる? 誰が いつ逃げると言った? ふざけるなっ!!
ボクは どんなに苦しくても辛くても碁を打っていくと決めたんだ!!」とアキラは言い放ち
肩を上下させて息をした。
ヒカルはアキラの怒りに燃えた顔をじっと見てニヤッと笑った。
「いつものタカビー調に戻ったな。それが お前のキャラだよ。
自分の碁を信じなくて いったい何を信じるんだよ。そのままの お前でいいんだよ。
お前は誰よりも神の一手の高みを自覚しているからこそ不安になったんだろ。」
ヒカルはそう言いながら いつか自分もアキラのように神の一手の重みの前に躓く事が
あるかも知れないと思った。アキラの苦悩する姿に未来の自分が重なった。
アキラの心の葛藤の叫びは他人事には思えなかった。
ヒカルの曇りの無い真っ直ぐな目と、自分に対する嘘偽りのない意見を聞いてアキラはハッと我に返った。
自分の態度や発言がヒカルに対して いかに乱暴だったと思い目を伏せた。
「しかし なんだな。お前でも不安に駆られて身をつまされる事ってあるんだな。
意外な感じがするよ。」とヒカルは口ではそう言ったが以前よりアキラに対し親近感が増した。
アキラの存在は自分のライバルなのは勿論だが、今まで かつて抱いた事の無い
もう一つの感情が湧きあがるのを感じた。
その感情が何なのかヒカルは いまいち理解出来なかった。
しかし なぜか本能的に恐れて それに気付かないフリをした。
アキラは自分の弱い心を卑下しているが、悩みに対して逃げず自分自身に真正面に向かい合い
深く掘り下げて問題の本質に迫ろうとする人間は あまりいない。
人は辛い事・苦しい事から目を背け、楽な方へと目が向く傾向がある。
(10)
自分の本心に気付いても誤魔化しながら生きる人間の方が遥かに多いだろう。
アキラは自分の強さを よく知らないだけで一時的に迷っているだけだと
ヒカルは無意識だが その事に気付いていた。
コイツ 案外不器用なヤツなんだよな・・・自分が一度こうだと思ったら意志を曲げず
周りの事はいっさいかまわないで突っ走るし。頭固くて生真面目すぎるんだよなあ・・・とヒカルは思った。
でも そんなアキラの一面も嫌いではなく、むしろ好感が持てた。
一つや二つの欠点があったほうが かえってヒカルには親しみやすく、完璧すぎる人間は
ヒカルのもっとも苦手な人種でもある。
アキラの父である行洋が その部類に入る。
「塔矢名人には そういう事を相談しないのか? あの人なら真剣に相談にのってくれるんじゃないのか。」
プライドは高いが真面目に話せば理解を示す人である事を佐為とのネット碁対局の件で
ヒカルは知っている。
「父には自分の事で余計な心配をかけたくない。父は毎日 碁と向き合い神の一手を模索している。
父の碁の追求を妨げる真似だけはしたくない。」とアキラは顔を下に向いたまま言った。
その言葉でアキラが どれだけ行洋を尊敬しているかがヒカルには理解できた。
そして偉大な父を持つ事に対してアキラなりの苦労を垣間見た気がした。
心の底から尊敬する父親ではなく自分に悩みを打ち明けてくれた事がヒカルには嬉しく感じた。
「進藤すまなかった 言い過ぎた。」とアキラはバツが悪そうに謝った。
「・・・塔矢、悩んだって解決する問題じゃないんだしさ 悩むより打てよ碁を。
打つしか道は開かねえよ。」
苦悩するアキラを前にして 今のヒカルに言えるのはこれが精一杯だった。
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