無題 第1部 6 - 10
(6)
うたた寝をしていたらしい。
インターフォンの音で眼が覚めた。
「ボクです。忘れ物を届けに来た筈なのに、忘れちゃって…」
そう言えばそうだった。
オートロックを解除して待っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「2度も足運ばせて、済まなかったな。」
「いいえ、ボクの方こそ…」
先程の事を気にしてか、目を合わせないまま鞄からフロッピーを取り出す。
「これですよね?」
ラベルを確認していると、すっと、アキラの手が緒方の頬に伸びた。
「冷してないんでしょう?手形、ついてますよ。」
何故だか、ギクリとして向き直ると、見た事も無いような表情で、アキラが見詰めている。
見すくめられたまま動けずにいると、すっとアキラの顔が近づいてきて、唇が唇にそっと
触れ、すぐに離れた。
(7)
そして、小さく口の端で笑ったかと思うと、緒方の顔を引き寄せ、今度はゆっくりと、その
唇を捉えた。呆気に取られている間に、アキラの唇はまるで緒方を味わうかのように動き、
唇を割って舌が侵入してくる。柔らかい舌が緒方の舌先に触れた瞬間、思考はスパークした。
逆に、アキラの舌をからめとり、口腔内に侵入する。激しいキスに慣れていないアキラは
あっさりと降参して、その体重を緒方に預ける。しなやかな若い肢体を抱きかかえながら、
緒方はおもうさま、アキラを味わいつくした。
そして唇から、首筋へとその愛撫を移そうとした瞬間、さっきまで身体を預けきっていた
アキラの手が、明確な意志を持って緒方をとどめ、身体を押し離した。
突然の拒否に、何故、と問うように、若干の戸惑いをもって、腕の中の少年を見詰める。
それには応えずに俯いたまますっと身体を離し、一歩下がる。
そうして、ゆっくりと顔を上げて緒方を見据えた。
「キスも知らないようなガキ、なんかじゃありませんよ、ボクは。」
そう言って緒方を見あげるアキラに、緒方は、ゾクリと背筋を走るものを感じた。
妖しく光る目。薄く開かれた蠱惑的な唇。視線を外さぬまま、すっと一歩前へ詰め寄る
のに気おされて、思わず緒方は後じさった。
そんな緒方を捕らえるように、ゆっくりと微笑みながら白く細い指が緒方に向かって
伸ばされた。
(8)
目覚めた時に、軽い頭痛を感じた。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、のどを潤おしてからバスルームへ
向かい、熱いシャワーを頭から浴びる。
「っツ」
左頬の痛みと共に昨日の事がよみがえってきた。
―アキラの言う通りにちゃんと冷しておくべきだったな。
とはいえ、それまで気付きもしなかったのだし、所詮、女の平手打ち程度ではたいした
あとになっている訳ではないだろう。
手早くシャワーを済ませ、バスタオルで身体を拭きながら、バスルームから出た。
出かける時間まで、まだ少し余裕がある。
昨夜やるつもりだった棋譜整理をしてしまおうと、PCを立ちあげる。が、昨日アキラが
届けに来たフロッピーが見当たらない。机の上にも、引出を探しても、入っていない。
もしかして、玄関に置きっぱなしにしたのかと思い、そちらを調べてみてもどこにもない。
玄関横の靴入れから、居間のリビングボード、ソファの周りまで調べながら、一体、
どこに置いたのだろうと、記憶を探る。
昨日、アキラからフロッピーを受け取り、それから、それをどこに置いた?
(9)
「…変だな」
もう一度、玄関横、それからPCまわりを確認しようとした所に、インターフォンが鳴った。
こんな朝早くから誰が、と思いながら受話器を取ると、予想外の声が聞こえた。
「緒方さん、朝早くからごめんなさい。」
モニターにはよく見慣れた、制服姿のアキラが映っていた。
「昨日、お渡ししなきゃいけなかったのに忘れてたので、フロッピー、ポストに入れて
おきます。」
「えっ?」
―何だって?それは、昨日キミが届けに来たじゃないか。
言おうとして、何故か言葉を飲み込んでしまった。
「それじゃ、もう行かないと、学校に遅れますから。」
ちょっと待て、と、引き止める間もなく、アキラはモニター画面から消えた。
狐につままれたような気分で、緒方は受話器を置いた。
―では、あれは一体何だったんだ?
確かに覚えている。
「忘れ物を届けに来たのに忘れちゃって…」そういって、フロッピーを手渡した。
受け取ったフロッピーのラベルをちゃんと確認した事も覚えている。それから、アキラの
手が頬にふれ…
あれが、現実でなかったとでもいうのか?
「キスも知らないようなガキじゃありませんよ。」
そう言って、妖しく微笑んだのは、ではあれは誰だったのだ?
(10)
だが、記憶はそこで途切れている。
ズキズキと頭が痛み出した。
馬鹿な。
涌いてくる疑念を打ち消しながら、その辺にあった服を適当に着て、エントランスへ向かった。
アキラが言った通り、郵便受けには、フロッピーが一つ。ケースを空けてみると、確かに自分
の字でラベルが貼ってある。さっきからずっと探して、見つからなかった1枚だ。
ここにこうしてこのフロッピーがあるのが現実だとすれば、つまり昨日アキラは出て行った
きり、戻ってこなかったという事か?
では、あれは俺の―夢に、過ぎないのか?
馬鹿な。なぜ俺があんな夢を見なければならない。
それとも、昨日、ソファでアキラを押し倒してキスした、あれも夢だったのか?
混乱する頭を抱えて、部屋に戻る。
乱暴に靴を脱ぎ、部屋に上がって居間のソファにドサリと座り込んだ緒方の目に、白いもの
が目に入った。手にとって見ると、それはくしゃくしゃになったハンカチだった。
「冷した方がいいですよ」そう言ったアキラが、急に可愛らしく見えたから…。
強引にアキラの唇を奪ったのが夢ではなかった事を、その白いハンカチが物語っていた。
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