白と黒の宴2 6 - 10
(6)
アキラと社は一時、ただ互いに黙って見つめ合った。
「…ああ…ボクもそう思う…。より強い者が選手になるべきだ…。それに、
社のセンスには強く惹かれるものがあった。あの場にいた者なら誰だってそう感じたと思う。」
思うままの事を素直に答えたつもりだったが、それを聞いて社がにっこりと嬉しそうに笑んだ。
「ほんまか!?塔矢アキラにそう言ってもらえるとありがたいわ。」
子供のような社の笑顔にアキラは一瞬戸惑った。
ヒカルもつられるようにやや興奮した様子で社に声を掛けた。
「がんばれよ!社。言っておくけど越智だって相当強いからな。」
「ああ。」
その時廊下の向こうから雑誌部の古瀬村がヒカルを呼んだ。
「進藤くん、とりあえず君に関する文章を先に作るから一緒に来てくれないか。」
「あ、はーい。それじゃあ社、塔矢、また明日な!」
ヒカルが二人に背を向けて駆け出していった。アキラもちらりと社を見たが、
「それじゃあ。ボクはこれで…」
とそこから立ち去ろうとした。するとふいに社に腕を捕まれグッと後ろに引き寄せられた。
社の顔が目の前に来た。キスをされる、と思わず体を強張らせて目を閉じた。
廊下の向こうではまだ行き交う棋院の職員や棋士らが居る。もしも彼等に見られたら、
とアキラは怖れた。だが社は何もして来なかった。
ただ肩を抱いて間近でアキラの顔をしばらく眺めただけだった。
「…何か期待したみたいやけど、いくらオレでも今そのつもりはないで。」
アキラはカアッと赤くなって社から離れた。
(7)
両手を強く握りしめ立ちすくむアキラを眺めながら社は嬉しそうにニヤニヤしている。
「…進藤って可愛エ奴やなあ。」
社のその呟きにアキラはぎくりとする。
「あいつなんか、仔犬みたいや。さっきもう少しであいつにキスしたくなりそうやった。」
アキラには社が何を言いたいのかわからなかった。
「さてと、じゃあオレ達も行こか。」
「えっ…」
「嫌やったらええで。無理にとは言わん。あんたと同じ位、あの進藤に今は興味がある。」
そう言って社はスタスタとヒカルが向かった先へ行こうとする。
「社…!」
思わずアキラは社を呼び止めていた。社が余裕の笑みを浮かべてゆっくり振り返るのを
アキラは唇を噛み締めて睨んだ。社が笑いながら近付いて来た。
「そんなコワイ顔せんでくれ。…ほんの少し、オレにつき合うて欲しいだけや。」
アキラは返事をしなかった。
それでも、社が歩く後ろについて歩いた。行くしかなかった。
社は荷物をロッカーから出して棋院会館を出ると大通りでタクシーを止め、渋るアキラの
腕を掴んで押し込むようにして乗り込んだ。
社は慣れた様子で渋谷のあるビルの名で行き先を運転手に告げた。
夕闇が始まった赤みを帯びた空の下の街中へタクシーは走り出して行った。
(8)
車中、アキラは社とは反対を向いて窓の外を見つめる。膝が微かに震えていた。
タクシーの中でも、降りた後でもアキラは社の顔を見ようとはしなかった。
「この前駅まで見送りしてくれたお礼に食事おごりたいんや。それだけや。」
明るくそう話してアキラの肩を軽く抱き寄せ、社はビルの裏手へと入って行く。
「こっちにも友だちが結構おるんや。それでよくこの辺りを利用してる。ええ店があるんや。」
歩きながら社がそう話す「この辺り」とはいわゆる都内でも有名なホテル街だ。
何が食事だ、とアキラは思った。
一見ファッションビル風、ビジネスホテル風のものからいかにもそれらしい建物まで
カラオケB0Xや雑貨店の合間にひしめいている。
時折カップルが通りかかり、大抵は無関心に通り過ぎるが中には怪訝そうに
後から振り返ってヒソヒソ話す者達もいた。
モデル並みの身長と容姿の男同士の華やかなツーショットは嫌でも人目を引く。
「ここや。」
それらの通りを抜けて社が親指で指し示したのはこじんまりした一軒家の洋食屋だった。
「…」
手書きの「本日のメニュー」が小さな黒板に書かれてドアの前に出ていた。
困惑するアキラの肩を再び強く抱いて引き込むように社はドアに手を掛けた。
「おお、清春くん、いらっしゃい。」
ドアベルを鳴らして中に入るとすぐにカウンターの中にいた料理長らしき人物が
声を掛けて来た。
(9)
年格好や笑顔が出版部の天野に感じが良く似ているその料理長はメニューを持つと
ニコニコしながら奥の席へ二人を案内した。
社はメニューを開く事無く3〜4種類のパスタやサラダ、肉料理の類を注文した。
夕食時でそれから間もなくさして広くはない店内はすぐに満席となった。
「東京に来た時はいつもここに来るンや。関西人やからってタコ焼きとお好み焼きしか
食べへんわけやないで。」
そう言って運ばれて来た料理をまめに小皿に取り分け、アキラに勧めた。
そして社も食べる。ゆうに3人前はあるかと思われたパスタがみるみる内に社の胃袋に収まっていく。
アキラは前に社が5個のハンバーガーをあっという間に平らげた事を思い返していた。
体格のせいもあるが相変わらず豪快な社の食べっぷりだった。
「…口に合わへんかったか?」
一向に減る様子のないアキラの皿を覗き込んで社が心配そうに聞いて来た。
「…いや、そんなことは…。」
悪くはないと思った。
だが普段からアキラはあまり食事に美味しい不味いという感覚を持たないタイプだった。
それ以前に味覚が鈍いというか、特にここ最近は舌が麻痺してしまったように何を食べても
味を感じなくなってしまっていた。
でも、ヒカルと一緒に食べた、あの日の夕食は美味しかった。残り物と常備食だけだったが。
「そう言えば痩せたな。大将のプレッシャーか?しっかり食わんと北斗杯もたへんで。」
社が真顔でアキラの顔を覗き込んで来た。
(10)
「失敗したかな。そうゆうことならやっぱガツーンと高級ステーキとかにすべきやったか…!?」
社が真剣に口に手を当てて考え込むポーズを取る。アキラはますます社という人物が判らなくなって来ていた。
「悪かったねえ、うちのは高級じゃなくて。」
手が空いたのか、いつのまにか料理長がそばに来ていて社の頭を軽く小突いた。
「ウソウソ。ここのピザとパスタは日本一やで、マスター。」
そう言って社は料理長に屈託のない笑顔を見せる。あのヒカルとの対局の時の厳しい形相の社とは
全くの別人のようであった。棋士とは皆そういうものではあるが。
「君も、碁を打つのかい?プロ棋士の人なのかい?」
「え、は、はい。」
料理長からふいに声をかけられ、アキラは慌てた。
「すまないね。私は囲碁のことは全くわからないもので。清春君、今日ここへ来たということは、
前に言っていた大きな大会の選手にとうとう決まったということかな。」
社は面目なさそうに頭を掻いた。
「いや、実はまだ…。明日もう一局打たなあかんのや。それで決まる。」
「そうかい、がんばってくれよ。今日は僕のおごりだ。」
「それはあかんて。」
社は子供のように唇をとがらした。
「今日はオレがこいつに飯をおごるって事でここに連れて来たんや。」
そう言って社はアキラを親指で差した。料理長は「ふうん」ともう一度アキラを見つめる。
「よほど大事な友だちなんだね。…清春君がここに一緒に来るのはいつも囲碁の世界とは
関係ない子ばかりだったからね。」
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