白と黒の宴4 6 - 10
(6)
…進藤を見るな…!
言葉には当然出さなかった。だがアキラは何度も胸の中でそう念じた。
念じながら空しさを感じた。
この大会に参加すると決めた先の意識に対してそういう感情を持つのは大きく矛盾している。
ヒカルにとって強大なライバルの存在が国境を超えてあることは好ましいはずだ。
そのための国際大会なのだから。
ヒカルと共にもっと成長していきたい。そう強く思う。
その過程で今回の高永夏との一件がヒカルにとって何か重要な意味を持つような予感もする。
今まで自分には踏み込めなかったヒカルの領域に踏み込むチャンスかもしれない。
ただ考えてみればそのアジアのトップ棋士が、日本のまだ名もない棋士からのおそらく
つまらない誤解からであろう敵意などを正面から受けて立つはずがない。
ヒカルにだって、ちゃんと行き違いをなくした上でこの先高永夏と対決する機会は
いくらでもある、そう説明すれば納得してくれるだろう。そうしよう。
アキラはそんなふうに考えていた。
だが壇上でアキラの後にマイクに向かった高永夏の言葉は意外なものとなった。
―「…本因坊秀策をずいぶん評価しているようだが、ハッキリここで言ってやる。
彼など今オレの前に現れたとしてもオレの敵じゃない。」
(7)
明らかにそれは高永夏がヒカルに限定して発したメッセージだった。
通訳の対応を待つ間でもなくその語彙はヒカルに届いた。
しかもその後で高永夏はヒカルのそばに歩み寄り、何か一言二言投げかけようとし、
同じ韓国チームの仲間らに制され連れ戻されていった。
「あいつ何て言ったの!?誰か通訳して!!」
ヒカルが周囲の者らに問いまわっているのが呆然とステージに立ち尽くすアキラからも見えた。
高永夏の言葉の矢は適格にヒカルの心臓を射抜いたようだった。
アキラは人知れず唇を噛んだ。
甘い言葉や賞賛もこれほどにヒカルを捕らえはしないだろう。
秀策のコスミ。時代を超えなお語り継がれる日本の最高棋士、本因坊秀策。
ヒカルとsaiを結び付ける霧がかったキーワード。
それはヒカルと自分の間に密みつと駆け引きを交わされて来た絆だ。
永年ひっそりと続いてきたゲームに突然途中から参加してきながら、誰よりもスキルを持ち
的確なカードを切り札として選んで出して来た。
何よりアキラが腹立だしかったのは、高永夏はおそらく本気でヒカルの事を
ライバル視しているわけではないとわかった事だった。
でなければあんな演出がかった言動をする必要がない。
ぶしつけな敵対心を向けられたお返しにヒカルをからかったのだ。
自分の立場や体裁など気にもかけず、無邪気に、そして大胆に。
(8)
嫌な気分だった。
彼と対局したという父親から聞いた話から抱いていた高永夏の印象とはかなり違う。
大将戦の相手として、かなり苦戦を強いられるだろうと思った。
「おまえが前、大将になりたいって言っていたのはこういうワケか。」
レセプション後の日本チーム一同が集まったホテルの一室の中で、倉田が溜め息をつく。
「高永夏と戦わせて!」
唇を噛み締め、両手を握りしめて高永夏への怒りが静まり切らないでいるヒカルの姿を見る事は
アキラには辛かった。
ヒカルの唇からその名が何度も繰り返し出る度にちりちりと火の粉が降り掛かるように
胸が痛む。
「天狗になって好き勝手言うとるだけのことやろ。なんでそこまで怒るンや。」
アキラに代わって社がヒカルを宥めようとした。だが、
「直接オレに言ったんだアイツは!引っこめるか!」
と怒鳴り返され社は身を竦める。かえってヒカルの怒りを爆発させてしまったようだ。
普通に考えれば、今までなんの接点もなかった相手がそうまでして挑発してくる事の
方がおかしい。だがもうそんな冷静さはヒカルに期待できない。
ヒカルは普段の検討のやりとりでもすぐに腹を立てる事はよくあったが、
その怒りはその場限りのもので数分後には忘れ去られている。
今回ここまでヒカルがこだわるのは「秀策」という名前が絡むからだ。
(9)
その秀策のイメージを色濃く纏ったsaiの存在。
アキラの脳裏に自分を最初に破った時のヒカルの存在が浮かぶ。
進藤とsai。回転ドアの表と裏のよう何度も入れ替わり重なり合う2人の影。
「ああ、そう言えば進藤って秀策の署名鑑定士だったんだ」
ひょいと思い出したような倉田のその言葉に思わず「はア!?」と社が顎を落とす。
倉田から以前に秀策の署名の虚偽をヒカルが見抜いたという話を聞かされて、ますます社は
困惑したような表情になった。アキラにも倉田のその話は興味深いものだった。
「なんやそれ…ただの秀策ファンやないっつーこと?だったらまあ、悪口言われて頭に来るのは
わかるけど…。オレだってもし吉川八段の事を『敵じゃない』って馬鹿にされたら…」
と想像するような顔をし、「………あまり腹は立たんかも…」とボソリと呟いている。
ヒカルの怒りはそれ以上の、確かにまるで自分自身を、自分の半身を貶められたような怒り、
自分の大事な存在を傷つけられた怒りのようなのだ。
saiが非常に秀策に傾倒していた碁打ちだということは素直に考えられる。
それらが全て以前ヒカルとsaiの関係においてアキラが想定したあるイメージを肯定していく。
それは何度も進藤に否定された考えだ。
でなければ別のもう一つの結論に辿り着く。
だがそれは、アキラが最も恐れる、辿り着きたくない結論だった。
(10)
「オレを大将にして!倉田さんっ!」
アキラが再びその疑念を抱き始めた事にもヒカルは気付かず倉田に食い下がる。
「大将は塔矢、進藤はまだ塔矢より下、お前はふ・く・しょ・う!」
ヒカルを落ち着かせるどころかさらに焚き付けるような倉田のその言い種に社はヒヤリとした。
出せる言葉が見つけられずヒカルは口を開けたまま倉田を睨み返している。今にも
倉田に掴み掛かりそうだ。そうなったら止めなければと社は身構えた。
「でもー、明日の中国戦でいいとこ見せたら考えてやらなくもないぜ」
倉田のその言葉に怒りで見開かれていたヒカルの瞳がさらに丸く剥かれる。
内容を理解するのに一瞬時間がかかったようだった。
「は、はいっ!!」
興奮気味に半分裏返った声でヒカルは返事する。
アキラは小さく溜め息をついた。ヒカルをやる気にさせるためにいかにも
倉田の考えそうな作戦だ。
「だけど中国戦の出来不出来は3人とも見るからな。さア、部屋に戻ってさっさと休め。」
「ホンマやこんな騒ぎで疲れとうないわ。帰ります。」
さすがに社もヒカルの単純さに一気に気が抜け、呆れ果ててうんざりしたような顔で出口に向かう。
「…失礼します。」
丁寧に頭を下げてアキラも続いた。
そのアキラと社の間をリスのように素早くすり抜けたヒカルは社が呼び止めるのも聞かず
さっさとまっ先に自分の部屋に入るとドアを閉めてしまった。
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