吸魔〈すいま〉 6 - 10
(6)
出水と連れ立って出ていくアキラを、市河や碁会所の面々は首をかしげて見送った。
緒方や芦原や進藤と言った棋士仲間以外で、アキラが帰路を共にするなど皆無だったからだ。
どんなに誘われても碁会所の客とは軽い飲食に出ることもしなかった。
塔矢アキラ自身が一番戸惑っていた。だが、一度口にした通りに動かなければと、頭の
奥のどこかが強く命令してくる。「そうしないといけない」と…。
外は思ったより雨脚が強かった。出水は黒い折り畳み傘を広げた。
「タクシーは駅前で拾いましょう。いいですね、塔矢先生。」
「…は…い…。」
「濡れますよ。もっとこちらに寄って下さい。」
出水の大きな手がアキラの肩を抱いた。そのときビクッと体が震えたが手を払い除ける事は
出来なかった。出水に何か話し掛けられる度に彼の言葉に従わなければならないような、そんな
圧迫感が強まってくる。このまま出水と一緒に居てはいけないとアキラの心の奥で警鐘が鳴っている。
だが体は思うように動かない。言おうとするする言葉が出てこない。
歩を進めながら出水が話し掛けてきた。
「…塔矢先生、実はお願いがあるのですが…。」
「…はい…?」
「あなたの血を少し、頂けませんか?」
道でも訪ねるかのように出水はそう言った。アキラは最初何かの冗談かと思った。
だが自分の口が別の言葉を言いそうになり、アキラは体中の力を振り絞る様にして出水の傘から出た。
(7)
足がもつれるようにして地下鉄の駅の入り口の壁にぶつかる。
出水が何かを言おうとしたが、アキラはそれを振り切ってそのまま壁の向こうに
回り込んで階段を駆け下りた。出水は咄嗟に周囲を見回すが通行人のほとんどは
傘を差していて特に気に止められなかった。
「…なかなか手強いですね。アキラ君は。…また、ヒカル君に協力してもらいましょう…。」
黒い傘の中で出水はニコリと笑んだ。
最初重かった自分の両足が時間が経つにつれて軽く感じるようになった。後ろから
出水が追ってくる気配がないのがわかり、少しホッとしてアキラは電車に乗り込んだ。
―いったい、何だったんだろう…。
頭の奥が痺れるように重い。
―催眠術…?
ふとそんな言葉が頭に浮かんだ。精神面の強化のためにそういう類いのものを
取り入れる話は聞いた事がある。自己暗示をかけるとか。でも、TV番組等でやるように
暗い部屋で数を数えるとか、別にそういう事をされた訳でもないのだ。
―進藤の様子が変だった…。
とにかく何か得体の知れないものを出水に感じる。ヒカルにも忠告しておく方が
良いと感じた。ただどう説明したらいいかは分からなかった。ヒカルに会って、
出水と碁会所を出た後何があったか聞こうと思った。
次の日棋院会館での用事を済ませたアキラが建物の外に出ると、出水が立っていた。
(8)
最初アキラは、出水に気がつかなかった。出水は柱の影に身を隠すように立ち、アキラが脇を
通り過ぎるのを見計らって声を掛けてきたのだ。
「塔矢先生、」
アキラの足が止まる。だが、振り向きさえしなければ、出水の目を見ていない
今のうちなら昨日のように振り切れるのではと考えた。
「…午前中、進藤君に会いましたよ。」
アキラはハッとなり思わず出水に振り返ってしまう。
「あなたに面白いものを見せたいのです。…少しお時間頂けますか?」
アキラは出水を睨み付けた。暗示にかかったわけではない。だが、「進藤」という名を
出され、出水の言葉に従わざるをえなかった。
棋院会館から数ブロック先の周りを木やビルに囲まれた小さな公園にアキラは連れていかれた。
人気のないその空間はオフィス街や道路の喧噪から切り離されたようにひっそりと、
鬱蒼としていた。
「…用件はなんですか?」
「3時…もうそろそろ彼がここに来るはずです。」
「彼?」
人の気配にアキラがそちらの方を見ると、ヒカルがポケットに無造作に手を突っ込んで
道路との低い垣根を跨ぎ、こちらに近付いてくるところだった。
「進藤!」
だがヒカルはアキラに反応を示さず、真直ぐ出水に近付き、間近に立った。
「…御苦労さまです、ヒカル君。君は本当に素直で聞き分けが良い子ですね。」
(9)
「…進藤!」
もう一度アキラが呼ぶと、ヒカルはピクリと僅かに反応してアキラの方に視線をよこしたが、
大手合いの時のようなどこかぼーっとした眼差しだった。アキラはヒカルに近付こうとした。
「君はもう少しそこから動かないで見ていて下さい。」
出水にそう言われた途端、アキラの足が動かなくなった。声も出せなくなった。
―まただ…!
呆然と立ちすくんだようになったアキラの目の前で出水はヒカルに手を伸ばす。頬に触れ、
アキラに向いていた顔を自分に向けさせる。そして愛おしむようにこめかみから顎を撫でる。
「…ヒカル君、申し訳ないけれど、また少し君の血を貰っていいですか?」
少し間があって、ヒカルがゆっくり頭を上下に動かす。
「…この前は左だったから、今度は右にしましょう。」
出水がそう言うと、ヒカルは右手を出水に差し出した。
出水はそのヒカルの右手首を持つと自分の口元に持っていき、その小指の根元部分を
キスをするようにして口に含んだ。
「あっ…!」
人形のようだったヒカルが一瞬、声をあげ苦痛に顔をしかめる。微かに出水から逃れようと
するような動作を見せた。…進藤!とアキラは叫びたかったが、やはり声は出なかった。
アキラはヒカルの左手の小指を見た。根元のところに錐で突いたような小さな穴の傷跡が
2つついている。
…まさか、そんな…
出水は左腕をヒカルの腰に回して抱くようにしてヒカルを制し、ヒカルの指を吸い続ける。
一時的に出水を睨み付けるような目になったヒカルだったが、次第に力が抜けるようにして
出水の体にもたれかかっていった。
(10)
「…済みましたよ、ヒカル君」
出水がそう言ってヒカルの両腕のところを支えて自分で立たせようとした時、アキラの腕が
その出水の右手首を掴んだ。
「…進藤から…手を離せ…」
アキラは全身の力を振り絞るようにして動いてきたのだ。出水は少し感心ようにアキラを見た。
「本当に君は、強い精神力の持ち主だ…。いいですよ。ヒカル君はすぐに帰してあげます。
ただ、もう少し待ってください。そのままでいいですから…。」
ヒカルは気を失っているように目を閉じていた。出水はそのヒカルに口づけする。
アキラがあっと驚いたように目を見開いたが、どうすることもできなかった。
深く唇を重ねられたヒカルの喉元が、何かを飲み込まされるようにゴクリと動いた。
アキラは思わず目を背ける。
喉元は数回動き、出水が唇を離すとヒカルは浮かされたようにぼんやりと目を開けた。
二人の唇の間に透明な粘液が糸を引き、切れた。出水は左手の親指で軽くヒカルの唇を拭った。
「もう帰っていいですよ、ヒカル君。…ここであった事は全て忘れてください。君は
碁会所の帰りに、少しだけ棋院会館に立ち寄っただけですから。」
ヒカルはコクリと頷くと、出水の手から離れ、公園の外へと向かってふらふらと
立ち去っていった。
「…どうです、アキラ君。面白いでしょう。」
アキラは怒りに体を震わせながら出水を睨んだ。出水は自分の腕を掴んでいるアキラの腕を、
もう一方の手で掴み返すと、アキラを宥めようとするかのようににっこり笑んだ。
「…そんなに怒らないでください。今度は君につき合ってもらうのですから。」
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