クリスマス小アキラ 6 - 10
(6)
父の威厳ある眼差しは、何人をも傅かせてしまう不思議な力があります。
緒方さんは眼鏡のフレームを直しながら、何度も頷きました。
「ああ、そうだった。ごめんねアキラくん。お風呂はまた今度ね」
「ほらアキラ、私がお風呂で遊んであげるから」
「やっ! おがたくんがいいのっ」
嫌がって頭を振るたびにアキラくんのおかっぱの裾が激しく揺れます。
師匠のこめかみがピクピクと引きつるのを、緒方さんは目を伏せて直視
しないように心掛けました。
「緒方くん、用事はきちんと済ませておきたまえ」
「………はい」
「さあアキラ、いぐずぉ!」
父はアキラくんをひょいと抱えると、遠心力で強度を増した髪にほっぺたを
切りつけられないように留意しながら風呂場へ走りました。
「おがたくぅぅぅぅん!」
廊下に轟くアキラくんの悲愴な声に身を引き裂かれそうになりながらも、
緒方さんは使命を全うすべく立ち上がります。雪を演出するために、
白い紙を小さく小さく千切らなければなりませんでした。
(7)
シャンプーハットを被って父に髪の毛を洗ってもらっていました。
「今日のごはんはおいしかったねえ」
「ハハハ。それはよかったなアキラ。緒方くんにあとでお礼を言うんだぞ」
「うんっ」
緒方さんと一緒のお風呂ではなくてもアキラくんは十分楽しそうです。
「アキラ、お湯をかけるから目を閉じていなさい。――緒方くんとはお風呂で
どんな遊びをしているんだ?」
目を閉じていられないアキラくんは、シャンプーハットを被っていますが
慌てて両手で目を覆ってお湯が目に入らないようにしました。
「うんっとね、お風呂にもぐってがまんごっこしたりね、ぞうさんごっこ!
おがたくんはね、いっつもボクに負けるんだよ」
アキラくんは誇らしげに胸を張りました。その小さな頭にお湯をかけて
あげながら、父は難しい顔をしています。
(ぞうさんごっことは一体……)
「アキラ、ぞうさんごっこはどうやるんだ?」
「え〜、おとうさん、ぞうさんごっこ知らないの〜?」
アキラくんはシャンプーが終わったというのにシャンプーハットを被った
まま、”ぞ〜うさん、ぞ〜うさん”と歌いだしました。身体も不器用にくね
くねさせています。
「アキラ……! なんてことをしてるんだ!」
クレヨンしんちゃんを知らなかった父は、緒方さんへ殺意にも似た何かを
感じてしまいました。
(8)
千切った紙を慌ててかき集めました。破ったチラシは20枚を数えます。
「おがたくぅん、ご用は終わったの?」
きゅっと袋の口を結んでコタツの中に押し込んだと同時に、アキラくんが
緒方さんの背中に抱き着いてきました。ほこほこのアキラくんからはお子様用
シャンプーの甘いニオイがしてきます。
「たった今ね。――アキラくん、髪がまだ濡れてるよ」
緒方さんはアキラくんの首にかかっているタオルを取ると、大きな手で
アキラくんの頭をがしがしと拭いてあげました。アキラくんは肩をすくめて
笑っています。アキラくんはくすぐったいことが大好きで苦手なのです。
「ねえおがたくん、ケーキおいしかったねえ」
「まだあと半分残ってるからね、明日の朝も食べられるよ」
「わあい」
アキラくんは甘えて、胡座をかいた緒方さんの膝の上に座ってきます。
「おがたくん、だいすきー」
アキラくんのふくふくしたほっぺが緒方さんの頬にぴったりとくっつきました。
「オレもアキラくんが大好きだよ」
緒方さんはメロメロになります。アキラくんが女の子だったらば、本気で
この子の紫の上教育を師匠に申し出るところでした。
「あのねおがたくん、おとうさんがね、お風呂でぞうさんごっこしちゃダメって」
「い、……っちゃったの? アキラくん」
髪の毛を拭く手を止めて緒方さんはアキラくんと見つめ合います。その時に
音もなく襖が開いたのを、緒方さんは気配で気づきました。
「――アキラは私に何でも教えてくれるのだ」
(9)
「その話は後にして、――緒方くん」
父は目で『さっさと雪を降らせたまえ』と緒方さんに指示を飛ばしました。
「あ、オレちょっと出てきます」
緒方さんがアキラくんを膝から下ろして立ち上がると、アキラくんはすかさず
緒方さんの膝に抱き付きました。
「ボクも行っちゃだめ〜?」
「アキラくんはお風呂に入ったばかりだから、風邪ひくといけないからね」
途端に可愛らしくクチビルを尖らせてご機嫌斜めになるアキラくんを丁寧に
コタツの中に座らせて、緒方さんは上着の中に忍ばせたビニール袋を抱えると
二階にこっそりと上がりました。
緒方さんは以前父に頼まれて何度かテレビのアンテナの位置を直したことが
あるので、屋根に上ることは慣れているのです。
アキラくんと父がいる居間の斜め上に立ち、緒方さんはビニール袋の中の
紙ふぶきを少しずつ少しずつ散らしていきました。運良く風が吹いてきて、
緒方さん作の人工の雪はちらちらと居間の前に舞い下りていきます。
ガラガラとガラス戸を開ける音がして耳を澄ますと、一階からはアキラくんの
子供特有の高い声が聞こえてきました。
「おとうさん、雪〜〜!」
「アキラ、寒いからコタツに入りなさい」
(――よし)
ガラガラとガラスの戸が閉まる音を聞いて、緒方さんはアキラくんが見事に
だまされてくれたことに安心しました。
(10)
(もう少し散らしたら、部屋に戻るか)
父は先程雪が降らないのを『寒くないからだ』とアキラくんに説明していましたが、
それは嘘です。空気が乾燥しているから雪が降らないだけなのです。
靴下だけで立っていると、足元から冷気が立ち上ってきて、緒方さんはかじかむ
足を引き摺るようにして移動を始めました。あと何歩か端の方へ行った方が、もっと
アキラくんに良く見えると思ったのですが、それがいけませんでした。
ほとんど感覚のなくなった足は少しの段差にも気づかなかったのです。
「ぅわっ……!」
緒方さんが大事に抱えていたビニール袋が、たくさんの紙ふぶきを撒き散らしながら
闇夜に消えていきました。
「ん?」
アキラくんにみかんをむいてあげていた父は、頭上で響いた物音に気づきました。
(緒方くん……とうとう転んだか……)
この振動なら、もしかして息子も気がついたかもしれない。父はアキラくんを
そうっと窺いました。さすがにそれほど鈍くなかったアキラくんも、きょろきょろと
不思議そうにあちこちを見回しています。
「アキラ?」
父の声を聴いているのかいないのか、アキラくんはあっと叫んで弾かれたように
立ち上がりました。
「サンタさん……?」
「おい、アキラ」
「サンタさんだ……! おとうさん今ね、サンタさんが来たんだよ!」
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