バレンタイン 6 - 10
(6)
アキラの目に動揺が走った。それは俺のS因子を微妙に突いてくる。
「それは…。尚志さん、腕が痛いよ」
「誰か、付き合ってみたい人はいた?」
アキラが息を呑んだ。――たぶん、今の俺はいやな顔をしているのだろう。
「ねえ、俺は安心してていいの?」
アキラの手首が震えるのを、俺は楽しい思いで感じていた。
自動ドアががーっと開き、新しい客が入ってきた。
いらっしゃいませ!と声を掛け、おにぎりを並べていた小倉君がいそいそとレジに入る。
(7)
「バカなこと言わないでください……!」
高く挙げられたアキラたんの華奢な手が、俺の頬に向かって振り下ろされた。
「付き合いたいのは、ボクが付き合っているのは尚志さん、あなただけです!」
小倉君はまじめな人だ。
だが俺もそれなりにまじめな店員だった。
職場で修羅場を繰り広げることに抵抗がないはずがなかったが、アキラを失う
ことを考えれば何をためらうことがあろうか。
頬を殴られることだって、アキラたんが与える痛みだと思うと甘美な陶酔を連れてくるってなもんだ。
「アキラたん、俺だって同じ思いだよ。この義理チョコになんでアキラたんがそんなに
怒るのか、俺にはわからんのよ。どんな美人に告られたって、俺はなびかない自信があるね」
焼け付く頬の痛みを堪えながらニヤリと笑うと、アキラたんのキリリと吊り上った眉がみるみる
うちに下がっていくのがはっきりと判った。
その細い肩を抱きしめたい衝動に駆られながら、紳士な俺はさわやかさを心がける。
「アキラたんだってそうなんだろ?」
(8)
「た、かしさん…」
「さあアキラたん。オレは10時まで仕事なんだ。もう遅いから明日会おうか」
送っていけなくてごめんねアキラたん。本当は一人で帰すのなんか怖いくらいなんだよアキラたん。
俺はタクシーを呼んでやろうと一緒に外に出た。
ドアの外にあるタクシー会社専用の電話の受話器を上げても、俺はまだ迷っていた。
男の運転手は駄目だ。この儚くて美しく可愛らしい恋人に何をされるか判らない。
だからといって女もどうだ。最近の女も大概恐ろしい。
「困ったな…」
受話器を下ろし、8cm下のアキラの瞳と見詰め合う。
「アキラたんを預けるに足る人間を思い出せないよ」
「あの、尚志さんの部屋で待ってちゃ駄目ですか?今日は帰っても誰もいないんです」
――帰っても誰もいない、というのはアキラの『泊まりたい』という言葉の代名詞だ。
俺はポケットからここから歩いて5分のところにあるアパートの鍵を取り出すと、
アキラたんの手のひらに握らせた。
「一人で大丈夫?」
「ええ」
アキラは儚げな微笑を浮かべ、両手で俺の鍵を包む。そんな大層なものではないのに、
アキラは壊れそうな宝物を手にしたときの慎重さを見せた。
(9)
アキラたんが何度も振り返り、手を振りながらドアの向こうに消えていく。
カウンターに入ると、二つあるレジの一つを締めていた小倉君はちらりと俺を
見、「彼女、いいの?」と呟いた。
「へ?」
彼女? 確かにアキラは今日はコーデュロイのパンツに膝丈のピーコートを着ていたが、
声や所作はどう考えてみても女の子と間違われるものではないと思うのだが。
「いまどきオカッパの子って珍しいね。送ってきてやったら?」
「いいのかよ」
「どうせ往復10分くらいだろ。それに、もう今日は客そんなにこねぇよきっと」
ああ、小倉君が神様に見える。たとえ、賞味期限の過ぎたおにぎりを持って帰って食べていることを
知っていても、彼のことだけは誰にも言うまいと俺は誓うよ。
「小倉君ありがとう……!」
俺はもうすぐ角を曲がってしまうアキラたんを追いかけるため、カウンターを張り切って跨いだ。
ああ、アキラたん。
重すぎる紙袋のせいで、肩が少し下がっているアキラたん。
そのせいでオカッパが少し左下がりになっているのも愛しいよアキラたん。
「アキラた――ん! 送っていくよ!」
ゆっくりと振り向くと、アキラは満面の笑みを浮かべて立ち止まった。
(10)
アキラはチョコレートがみっしり入った紙袋を俺に渡すのには抵抗があったらしい。
でもほとんど強引に取り上げると、もう何も言わなかった。
「アキラたんを部屋に入れたら、すぐ戻らなきゃなんないけどね」
アパートはすぐそこだった。2階建てのアパートの2階の端が俺の部屋だ。
「尚志さん、前から思ってたけど、その制服すごく似合う」
錆びた階段を上りながら、アキラは俺を上から下まで眺めてそんなことを言った。
「前から?」
アキラたんが俺のバイト先に現れたのは今日が初めてだ。
少なくとも俺はそう思っていた。
「…尚志さんが働いてるのをこっそり見てたことがあるんです。何度か」
アキラは恥ずかしそうに俯き、そのまま俺の部屋のドアの前まで走って逃げた。
部屋に入ると、玄関先でアキラを抱きしめた。
コンビニまでは歩くと5分だが全力疾走なら3分もかからない。
俺はゆっくりと歩くよりも2分間アキラを抱きしめることを選んだ。
「アキラたん、自分がもらったチョコレートをどうして持ってきたんだ?」
「尚志さんと食べようかと思って」
アキラに悪びれたところは全くない。鼻をアキラの髪の毛に潜らせると、彼の髪の毛からは
おでんの匂いと、少し冬の匂いがした。
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