裏階段 アキラ編 6 - 10
(6)
「お父さんが囲碁が好きで、新聞とか買って来るの。緒方君すごく強いんだってね。
応援してるから、がんばって。」
相手の微かに足が震えているのがわかった。
そんなにオレが怖いのなら、無理に声を掛けて来なくてもいいだろうにと思った。
手合いで殆ど学校に来れない中で時折授業の書き写しのノートがオレの
机の中に入っている事があった。
何人かで事務的に順番にされたものなのか、複数の筆跡で書き込まれていた。
だがそのノートが本人が家に持ち帰る事は殆ど無く、特に謝意を示す訳でもない相手であった
ために次第に書き込まれる量は減っていった。
ただ1人の筆跡だけでノートへの書き込みは続いていた。
丁寧に分かりやすく、試験に出るポイントを重点的にまとめてあった。
図書室で声を掛けて来た女生徒とそのノートの書き込みの主が同じかどうかは分らない。
2年生となる前に高校を中退した。
同時に塔矢家を出る事を「先生」に伝えた。既に碁会所に通う内に知り合った
女性のところに寝泊まりしていてほぼ塔矢家を出ていたのも同然だった。
本当は「先生」に結婚話が持ち上がり話が進められた時期に出る意志は固まっていた。
それがずるずる伸びたのは結婚相手となる明子夫人が反対したからだ。
「セイジ君がいないとこの家の事が分らないわ。先生はあてにならないもの。」
「…緒方さん?」
返事のないこちらに怪訝そうに首を傾げ些か不機嫌そうにアキラが呼び掛けて来た。
(7)
「先生」と明子夫人の出合いはお見合いといえるかどうかも分らない程度の
顔合わせだったと聞いている。
手合いが立て込んで殆ど「先生」不在で仲人側で式の日取りを決めようとした矢先
既にもう明子夫人のお腹に生命が宿っていると分かって自分も含めて後援会や
門下生の面々はかなり驚き慌てたものだった。
「…迷惑でしたか?こんな話をされて。」
「いや、自分がどうだったか、少し思い返していたんだよ。」
進学の悩みであれば両親に相談するべきなのだろうが、今のアキラは無意識に
それを拒んでいる。
恐らく今までそういう感情を抱いた事がなくて持て余しているのだろう。
“反抗期”というものを。
今まで見ている限りで「先生」と明子夫人がアキラの意志を頭ごなしに押さえ付けるような
“教育”方針は遂行してはいない。むしろ息子の意志を尊重し過ぎているくらいに見える。
なまじ子供の方に自立心があると“大丈夫な子”を演じ続けるようになる。
思春期に入り不安定な精神で悩みを抱えても親には打ち明けようとはしなくなる。
特に自分の将来に対する漠然とした不安と悩みは深刻であるにもかかわらず。
「緒方さんの高校生時代って、何だか想像出来ないです。」
「想像しなくていい。」
オレが高校を辞めた年に君は生まれたんだよ、と心の中で語りかける。
家を出る時にもしかしたらこのまま「先生」からも離れる事になるかもしれないと思った。
離れられなくしたのは新たに生まれた生命の存在だった。
(8)
実のところアキラとこうして食事をするのは久しぶりの事だった。
「先生」が日本の囲碁界から引退し中国の囲碁チームと契約をしてから事実上塔矢門下は
解散に近い状態だった。
もちろん「先生」が帰国している間に棋士らが自然に集い研究会のような事を定期的に
続けてはいたが自分はそれにはもう参加していなかった。
「先生」の後援会の一部が分かれるかたちでオレの支援をする事になり、
「門下生を持たないか」という話が来るようになった。
あの時、「先生」に結婚話が持ち上がった時のような、タイミングというものを感じた。
この人から離れる機会が来たのだと。
「先生」の傍で「先生」と碁を学ぶ事は嬉しかった。
だが自分がその場所に相応しい人間だと思った事は一度もなかった。
今でも、それは変わらない。
ようやく離れる事ができる。
それは「彼」から離れる事も意味する。
本因坊のリーグ戦で戦った時、一つの結論がオレの中で出ていた。
「彼」はもう、共に学ぶ立場の人間ではなくなったのだと。―だが。
「もう一度、時間をつくってもらえますか…?」
棋院会館で、高段者の手合い日で廊下で出会った時アキラがそう伝えて来た。
前回最後に会った時に“二度と二人だけでは会わない”と約束したはずにもかかわらず。
オレの決意をまたもや「彼」がこうして鈍らせる。
(9)
行為を重ねる毎に、肌を感じ互いの熱を放出しきった時に荒い呼吸の中で
見つめ合いながらこれで最後にしなければいけないと相手に訴える。
もう何度も、そういう約束をして来た気がする。
その時は「時間がとれる保証はない」と伝えた。「それでもかまいません」とアキラは答えた。
そしてオレは一つの予定をキャンセルし、アキラに時間と場所を連絡した。
「緒方さん、飲まないんですか?」
「おいおい、」
ポケットに手を突っ込んで車のキーの音を鳴らす。
だがアキラは黙ってこちらを見つめて来る。
「…話したい事はそのことか?どちらにしろ高校の事はオレより芦原に聞いた方が良いだろう。
少なくともオレよりはずっと君の世代に近い。」
親身に相談にのるつもりも敢えて冷たく突き放すつもりもなかった。
ただ淡々と、こういった時間を積み重ねて行けばいい。
しまい込まずに日に当てて色褪せていかせる。別れとはそんなものだと悟らせる。
「彼」の年代は難しい。押さえ込むと本能的に反発する。
無言のままだったアキラがジャケットの内ポケットの中で何かの音を立てて取り出し
テーブルの上にそれを置いた。
ホテルのルームキーだった。
(10)
ほとんど席を立ち上がりかけていたが、改めて座り直す。
「どういうつもりだ…?」
「別に」
窓ガラスに向かうようにあるテーブルに並んで座っていたが、窓の外の夜景を見つめる
アキラの横顔は張り詰めた糸のように冷たくそしていつもよりまして凛として美しかった。
「そうですね。相談の続きは芦原さんにでも聞いてもらいます。」
そう言うとアキラは携帯電話を取り出した。
「おい、今からあいつをここへ呼び出すつもりか?」
アキラは応えず、片手で携帯を操作して軽く首を振って髪を払うと耳に当てる。
呼び出し音が微かに漏れ聞こえる。ブツリ、と何らかの対応の音がした。
「あ、夜分にすいま…」
そうアキラが言うか言わないかの時に携帯を持った手首を掴み、耳から外させた。
そんなに大きな動作ではなかったが、一瞬カウンター近くのウェイターがちらりとこちらの様子を
伺うのが視界の端に入った。
彼はすぐに何事もなかったかのように業務用の無表情な顔つきに戻った。
テーブルの上にアキラの手の中のまま押し付けられた携帯電話から『〜発信音の後にメッセージを〜』
という機械的な女性の声が聞こえて来た。
こちらの体から力が抜け手を離すとアキラは何もメッセージを入れる事なく一度電源を切り、改めて
誰か別の人間の電話番号を拾って電話を掛けようとした。
今度はコール音がなる前にその手を掴んだ。
「…やめてくれないか。」
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