裏階段 ヒカル編 6 - 10
(6)
彼は質実剛健さな手堅い手筋を好む事で有名な森下九段の門下生だった。
だとすれば単なる思いつきや感覚でものを言う事はしないだろうと思われた。
実際、その師匠に傍らでたしなめられつつもそれでもsaiの話をやめようとしない。
それだけsaiの打つ碁というのが魅力的なものらしい。
「それくらい強いっていうか、何局も見たんですけど、強くなっているんス。そいつ、
まるで秀策が現代の定石を学んだみたいに…。」
「秀策」という名は、本格的に囲碁を学ぶ者であればそう安っぽく扱われるものではない事は
誰でも知っている。その上でそういう感触を受けたわけだ。
「秀策が現代の定石を…?」
その話にはその場にいた、saiの対局を見た者らは誰も否定しようとしない。
「それは―神か?…化物か?」
本能的に血が騒ぎ思わずそう口にしてしまい、心の中で苦笑いしていた。
そんな存在が本当にあるとしたらぜひ見てみたいものだが、果たしてネットの中に、
ネットの中だけにそれがいるというのだろうかと疑問に思うところだった。
(7)
そんな騒ぎの最中にアキラも会場にやって来た。
「どうかしたんですか?」
すると先程の少年が突然嫌悪感を露にした表情をアキラに向けた。
「おまえの知らねーことだよ!あっちいってろ!」
「あ、キミは…」
少年とアキラは同じ今度のプロ試験を受ける知り合いのようだった。
かなり堂々と森下九段が「打倒塔矢門下」を謳っているのは周知の事だったので
少年のアキラに対する態度には無理からぬものがあった。
実質アキラがプロ試験を受ける事はそのまま枠が一つ消える事と同じなので
そこから来るものもあったのだろう。
そんなアキラと同世代の少年、その少年とだけ無防備に言葉を交わしたというsai…。
何か直感のようなものがオレの頭の中をよぎった。
それを裏付けるかのように、少年は周囲の大人に説明を続けた。
「でもオレ思うンすけど、そいつ、子供じゃないかな…。」
夏休みの間に現れた、プロとは思えない、だがプロに匹敵する、
あるいは超える実力の持ち主でsaiと名のる「少年」。
縁側で庭先を眺めていたような虚ろいがちだったアキラの瞳が、
一瞬意志的な力を蘇らせたのをオレは見逃さなかった。
(8)
「心あたりはないのかい、アキラくん」
そう尋ねるとアキラが驚いたようにこちらを振り返った。
見合わせた互いの意識の先には共通の人物像が浮かび上がっていた。
だがアキラすぐさまそれを否定した。
「ありません、緒方さん。彼の事を言っているなら見込み違いです…。」
安易に期待を抱いて裏切られる事への拒否感がそこにあった。
アキラは視線を床に落とした。
進藤についての記憶を呼び覚まされる事にすら嫌悪しているようだった。
だがアキラの頭の中にははっきり彼がいるのは明白だった。
結局碁会所での一局も中学の大会での進藤との一局を見せて貰えていない。
そのどちらもいろいんな意味でよほどインパクトが強かったのだろう。
そこへ棋院の職員がネットが出来るノートパソコンを持って来た。
オレは迷わずsai探しをアキラにさせた。
(9)
saiが進藤であるならば、アキラの名に反応する事もありえる。
アキラが同じ可能性を抱いていたかどうかは分からないが、意外にあっさりとオレの指示に
素直に従い、パソコンの前に座した。
果たしてsaiの名はそこにあった。
「…オレ、いろんな意味で緒方先生に感謝しないといけないだろうなあ。」
ボソリとそう進藤が呟く。
「眠っていたんじゃないのか。」
こちらに背を向け、オレの右腕の上に乗っていた進藤の頭がごそりと動いて体ごと上を向く。
「緒方先生が塔矢をあの大会に連れて来なかったら、…あ、ううん、それより前に、
街なかでオレを捕まえて元名人の前に引っ張っていかなかったら、オレの中の囲碁に対する
強い気持ちや、塔矢とのつながりは生まれなかったと思う…。」
「オレはお前を元名人の元に連れて行った事を後悔しているよ。」
そう言ってやると天井を見上げたまま進藤が「ヘヘッ」と嬉しそうに笑った。
「そして多分、アキラくんにその事で恨まれている。…あの会場にアキラを誘った事でもな。」
今度は進藤は笑わなかった。ただ黙って古めかしい旅館の暗い天井を見つめている。
「…緒方先生は、悪くないよ。」
「…そう言って貰えると有り難い。」
(10)
「ねえ、塔矢が初めてネットでsaiと出会った時ってどんなだった?」
そう言って進藤がこちらに顔を向けて来た。
ふわりと進藤の柔らかい前髪が動く気配がして温かい息が頬に降り掛かる。
話を続ける前に、一度進藤の方に顔を向けてその顎を捕らえて軽く唇を重ねる。
すぐに進藤がオレの手を掴んで顔を引き離す。
「だからー、そういうのヤだっていつも言ってるだろっ!」
僅かに窓の外から入る月光によって、進藤が不満そうに唇を尖らせるのがわかる。
ついさっきまで何度もそれらの行為を繰り替えした事などなかった事のように怒り、
掛け布団から出て行こうと体を起こす。
首から下の華奢な裸身が月の光に浮かび上がる。
こちらもすぐに体を起こして宥めるように背中側から進藤の体を腕で包む。
「すまなかった。ちゃんと話を続けよう。」
進藤が納得半分に溜め息をつき、体重を預けて来たので進藤の体を抱いたまま元の位置に
体を戻した。
初夏とは言え山深い場所にある温泉宿の深夜の室内は肌寒さを感じる。
「痛いよ…」
無意識の内に腕に力が入っていた。進藤の声で慌てて弛めた。
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