指話 6 - 10


(6)
自分にはあの人の心を揺るがす事は出来ない。そう思っていたあの人の変化を
感じ始めたのは若獅子戦の会場に進藤を見にあの人が来た時だった。
そして進藤がプロ試験に合格し、父が、新初段シリーズに出る事を了承し相手に
進藤を選んだ時、あの人の中の変化が思っているよりも大きな事を確信した。
棋院会館の一室で新初段シリーズの対局をあの人と共に見守り、
桑原先生の挑発に乗って父と進藤のどちらが勝つか賭けをするその人を、
驚きと何か良くない夢を見ているような気分で眺めていた。
本因坊戦の一件の事があるせいなのは分かっていたが、父の相手が進藤でなければ
そんな事はしなかっただろう。誰に対しても動かないはずであったあの人の心が、
進藤によって人間的な熱を含んで動き始めているように思えてならなかった。
脇目を見る事なく、後ろを振り返る事なく進んでいた自分の道にふと不安を抱くと
同時に、何か自分自身が大きく変化していくような期待を持ち始めている。
否定しきれなかった。
かつて自分がそうであったのだから。
ふと、自分が進藤と戦う事になったら、あの人はどちらに賭けてくれるだろう、
そんな思いが頭をよぎった。あの人は、どちらを自分を「追い詰める者」として
望んでいるのだろう。
そんな思いを抱いたことに罰を与えられたように、進藤との直接対局の日の朝、
父が倒れた。


(7)
自分以上にあの人が受けたショックの方が大きかったと思う。
父を追い、ようやくその一端を捕まえようとしていた間際だったのだから。
あの人は囲碁界では異端児だった。古い流れを断ち切り新しい風を
吹き込もうとしてた。その姿勢が一部の古老達の反感を買い、
若い頃にはいろいろな鞘当てや風当たりがあったという。
そんなあの人を矢面にいつも立ったのが父だった。
あの人との十段戦の最中であったため、父の見舞いに来る人たちの会話から
そういう話を聞く事が出来た。
院生にならず、場末の碁会所で気の荒い連中を相手に力碁を打っていたのを見て、
父がプロになるよう声をかけたのだという。
家は裕福なはずだったが、家庭に事情があり、相当荒れた青春時代を過ごしていたと
言う事で、父の門下に入れることに反対する声もあったようだ。
碁と同じく荒い気性は、父の元で打つ内に形を潜めたという。
何よりそれまで以上に碁に夢中になり、毎日訪れては父と打っていたのだと。
―途中でどうしても重要な話があって、先生に声をかけに入ったところ、
あいつに噛み付かれそうに睨まれたよ。
ボクが思わず泣き出したあの目の事だろう。父の息子であろうが、その人に
とって何より大切な父との時間を邪魔するものを許さない目。
ボクが父の碁を追うように、やはりあの人も父の碁を夢中で追ってきたのだ。
あらためてあの人に惹かれないではいられないと思う。
自分は進藤に感情的になり過ぎている。もう少し冷静になろう。
自分を見つめなおすために。そう思っていた矢先、
父がsaiと打つ場に出くわした。


(8)
棋士仲間による勉強会の中でパソコンのモニターに映し出された父とsaiの一局に
そこにいた誰もが心を強く引き付けられた。おそらく見た者全てが。
理想的な美しさを持った棋譜は、時代を超えて残るべき一戦となった。
自分や、あの人がおそらく望み続けていた父とのそれを、saiは手に入れた。
―進藤、と心の中で呟き、唇を強く噛んだ。
進藤は自分の遥か後ろを走っていると思っていた。実際そうだった。
なのに、こうしていつも突如遥か前方に聳え立つような存在感を放つ。
父に話を聞きたかった。saiと打つ事になった事情を。
そうして病院に向かったボクは、病院の廊下で我を忘れて進藤に詰め寄るあの人を見た。
あの人も父とsaiの対局を見ていた。そしてここへ来た。
少なくとも碁を打つ以外の場では、いつも冷静で感情を表に出さないあの人が
文字どおり目の色を変えていた。
進藤に逃げられ、高ぶって父に進藤とsaiの関連を尋ねるあの人にボクは
加勢する事が出来なかった。
そうするとあの人が進藤のものになってしまう、そんな気がした。
自分の心の中ではとっくにsaiは、進藤だと結論がついているのにもかかわらず。

父が復調し、結局十段戦はあの人が父を制して奪った。だが父の碁は、saiと打った事で
大きく変化を遂げていた。あの人は決して父を完全に捕らえたとは思えなかったはずだ。
saiに、父を奪われ、そして自分自身も奪われかけている。
あの人にはまだその自覚はないのだろうが。だが、いつかその事に気付く。
その前に何とかしたかった。あの人を引き留めたい、心からそう思った。
だがどうすればそれが出来るのか、その時はまだ分からなかった。


(9)
そして突然、父が囲碁界から現役引退を表明した。
周囲の驚きと心配をよそに、父は、あくまで穏やかで普段のままだった。
その予感はあった。その日の朝、対局の後の父の言葉。
―これからは、私よりもお前の周囲の者から学ぶべき事が多くなるだろう…。
ボクは無言でいた。…進藤から、学べというのですか、お父さん…。
父もまたきっと、saiは進藤であると見抜いている。でも父にとって今やsaiの正体など
そんな事はとるに足らない小事なのだ。この世にはまだまだ面白い打ち手がいる。
そして自分の碁も、まだまだ変化していくのだと。父の興味は新しいものへ向かっている。
そんな父に、もう一人戸惑う者が居た。あの人だ。
囲碁界に新しい波がもうそこまで来ていると断言した、その当人の師匠が率先して
若い者に道を譲った。そう解釈する輩も当然いるだろう。そういう人達のあの人を
見る目は今後さらに好奇と厳しさを帯びるはずだ。
だが父の意識はもっと別の次元にある。もっとシンプルなものだ。だが、
嫌がおうにも父に替わって塔矢門下の現実的な看板の重みが、彼の肩にかかる。
直後に何人もの関係者が父の元を訪れ、いろいろ今後の事を話し合っていった。
あの人は数日遅れてやって来た。母が玄関に出迎えに言ったが、ボクは出ていけなかった。
父の部屋で、あの人はずいぶん長く父と話をしていた。
ボクは部屋から離れた廊下に立ち、庭を眺めていた。
…進藤が変えていく…いろんなものを…ボクの周囲の多くのものを…。
進藤にはその魅力がある。彼と打った者は、なんらかの影響を受ける。おそらく父が
一番影響を受けた事になる。対戦者に対し何の偏見も先入観も持たない父だからこそ。
―おかしなものだな…。
気が付くと、音もなくその人がすぐ後ろに立っていた。
―最近、塔矢先生と進藤が似ていると感じることがあるよ…。


(10)
―…それは、どういう意味ですか?
互いに視線を庭先に向けたまま会話する。
―生命力を感じる、というのかな。完成と未完成の両方の面白さと不安定さが
同居しているような…。まるで少年のように今後の夢を語っていらしたよ。
―進藤は、そんなに魅力的な打ち手ですか…?
―さあね。自分で打ってみなければわからん。それも碁会所や試し程度ではなく、
公式の場でお互い真剣勝負の場でやってみないとな…。
―彼とは打たないでください。
思わず口走って自分の言葉に驚く。向こうも少し驚いたように
こちらを見た。そしていつものようにフッと無機質な笑みを浮かべる。
―努力してみるよ。
その人が玄関を出て、耳なれたその人の愛車のエンジン音が響いて遠ざかるまで
ボクはその場所を動けなかった。思わず出た本音だった。例えようのない愚かな。
次の日、あの人がイベントで岐阜県の奥地に出向き、それに進藤も同行したという話を
碁会所で知った。市河が芦原から聞いていたのだ。
あの人はsaiと進藤は別人だと思っている。ただ、saiは進藤の師匠か何かで
伸び盛りの進藤がいつかはsaiに近い打ち手になる、そう考えている。
廊下でのあの会話は、進藤と手合いをしてみるよ、とボクに一言
断わりを入れたつもりだったのだろう。同意を求めたわけでもなく。



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