誘惑 第一部 6 - 10
(6)
「和谷、何、恐い顔してんだよ?」
いきなり後ろから声をかけられて焦った。振り向いたら進藤だった。
「な、なんでもねぇよ…」
「誰か見てたのか?あ、あれ、塔矢と芦原さんじゃん、おい、塔矢!」
「進藤、」
ヒカルに呼びかけられて振り向いたアキラの顔に、その笑顔に、和谷は心臓を直撃されたような
気がした。それはまるで大輪の花がぱあっと開いたような、光り輝くような笑顔だった。
芦原と二人で、こっちに近づいてくる。そしてアキラはヒカルの隣に和谷がいるのを認めて、また、
にこっと笑った。
笑いかけられると、どぎまぎしてしまう。どう対応したらいいのかわからない。
だからつい、いつものようにムッとしたような表情を作ってしまった。
その自分の対応を見て、アキラの表情が曇った。しまった、と思ったけど、遅かった。
折角今、むこうが譲歩するように笑ってくれたのに。
塔矢アキラがキライな訳じゃない。そう思う。
むしろ、羨望と憧れの対象でもあるのに、自分がそこに届かないから、だから自分が情けなく
思えるような気がして、いつもつっかかるような態度をとってしまっていた。
そしてオレは今も素直になれない。
全く、進藤が羨ましい。進藤くらいのものだ。塔矢と平気でじゃれあえるのなんか。
コイツはいつもそうだ。相手にびびるなんて事はないみたいだ。
大人相手でも、塔矢アキラのような特別な存在が相手でも。
(7)
最初は自分が面倒を見てやっていたはずなのに、いつの間にか自分を追い越して先に進んで
しまっているのではないか。和谷はヒカルに対してはそんな懸念を抱いていた。
塔矢アキラは最初からずっと先にいたが、自分の後ろにいたはずの進藤が、気付かないうち
に自分を置いてけぼりにして塔矢アキラと肩を並べて歩いている。
だけど、おまえはオレがそんな事考えてるなんて気付いちゃいないんだろうな、と和谷は苦笑
混じりにヒカルを見た。
そしてふとヒカルから目線をあげると、同じようにヒカルを見ているアキラがいた。
コイツが、こんな顔をするなんて―と、今日何度思っただろう?
進藤を見る塔矢の表情。優しい、暖かい眼差しと穏やかな微笑み。こんな奴だったろうか、こい
つは。前から、こんな風に進藤を見ていただろうか。いや、違う。そんな事はなかったはずだ。
確かに、進藤は塔矢に対して臆したり躊躇したりする事はなかったけれど、以前にはもっと違う
緊張感のようなものがあったと思う。それなのに、今のこの馴れ合い様はなんなんだろう。
何かが妙に苛つく。さっきから、なんだかわからないけれど、居心地が悪い。やっぱり、オレは
こいつとはとことん相性が悪いのかもしれない。そう思ってアキラをちらっと見た。
だがアキラは和谷のその視線には気付いていないようだった。
「ごめん、進藤、知り合いがいたんで、ちょっと、挨拶してくる。」
そう言って、アキラはテーブルにグラスを置いて、そこを離れた。
人ごみを縫うように歩いていく塔矢は、やはり目立つ、と和谷は思った。最近、幾分背が伸びた
とはいっても、大人たちの中ではまだ埋もれがちな身長なのに、それなのに、あいつは一目で
わかる。なぜだろう。
ぼんやりとアキラを見ていた和谷に、ヒカルが声をかけて来た。
「なーんか、和谷、今日は機嫌悪そうだなあ、どうしたんだ?」
「別に、どうもしねーよ。」
和谷は苛立ちを隠そうともせず、おざなりに言葉を返した。
(8)
和谷の苛立ちはその後も続いていた。
最近、進藤は付き合いが悪い。どうやら塔矢とよく一緒にいるらしい。
大体塔矢門下と森下門下はライバルじゃなかったか?それなのに、当の塔矢アキラと馴れ
合って、どういうつもりだ。今日も、今度の森下先生の研究会に来るのかどうか確認しておこう
と思ったのに、いつの間にか見当たらなくなっている。
「進藤、どこ行ったか知らないか?」
「さあ?そう言えばさっき塔矢と一緒にいたけど…」
そう言われて、和谷は少しムッとした。
また塔矢かよ。最近のあいつらはなんかヘンだ。他の奴らは気付いていないみたいだが。
ああ、苛々する。塔矢の事を考えると苛々するから考えたくないのに、進藤のせいでまた思い
出してしまった。もしかすると、でも苛々の原因は塔矢と進藤のセットなのかもしれない。
訳がわからない。もう、嫌だ。こんな苛々は。
気を晴らそうと思って、和谷は棋院の屋上へ向かった。本来なら立ち入り禁止のはずの屋上
だが、鍵はかかっていなくて誰でも出入りできる状態になっている事を、和谷は知っていた。
こんな、息苦しい部屋の中にいるからこんなに苛々するんだ。今日は天気が良い。外に出れ
ばきっと気が晴れる。
階段を上っていって、最後の踊り場を回ろうとした和谷に、小さな声が届いた。
(9)
「…それよりもさぁ…、なあ…塔矢ぁ、」
甘えるようなヒカルの声が聞こえて、和谷は耳を疑った。なんだ、今の声は。
続いて、アキラの声が耳に入った。
「ばかっ、やめろよ、進藤、こんなとこで…」
「いいだろ、誰もいねぇよ…」
なんだ?今のは。
どういう事だ?
足音を潜めて階段を上っていく。
薄暗い、屋上へ通じるドアの前の踊り場に、和谷は信じられない光景を目にした。
抱き合ってキスしている、進藤と塔矢。
進藤の口から僅かに漏れる、あれは…喘ぎ声?
塔矢の首に手を廻して、しがみついて、何してんだ?おまえ?男同士で。
しかも塔矢の、手?なんだ?あのいやらしい手は。進藤の尻を撫で回して…
おい、進藤、なんだっておまえ、そんなヤツにそんな事、させてるんだ?
(10)
気配に気付いたのか、アキラが薄目を開けて和谷の方を見た。
ヒカルを抱いたままのアキラの視線が、二人を睨みつけるように見る和谷の視線とかち合った。
一瞬眉を顰めて、それからゆっくりと唇をはなして、ヒカルの名を呼ぶ。
「進藤…、」
「や………と…や…」
名残惜しそうに、ヒカルがアキラの唇に追い縋る。
「進藤、」
とろけるような表情でアキラの首にしがみついたままのヒカルに、アキラが視線で、和谷の方を
指し示した。
「え………ぅわあぁっ!!」
ヒカルは慌てて真っ赤になってアキラから手をはなした。
アキラはヒカルの肩を抱いて、不遜な笑みを浮かべて、和谷を見下ろした。
「なに、してんだよ…、おまえら…」
「何って、見ての通りだよ。」
半ば開き直ったように、アキラが言った。
和谷はアキラを睨みつけて、言った。睨みつけながら、ダン、と音を立てて階段を上った。
「なんの、つもりなんだよ、貴様…、進藤に、何してんだよ、おまえ。」
「何してた、って、キスされてただけ。」
「されてたって、何だよ、その言い方…!進藤のほうから…そんな事、するわけないだろ!
おまえが、誘惑したんじゃないかっ!?」
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